饭饭TXT > 海外名作 > 《吸血鬼(日文版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 吸血鬼.txt

 その日第一回のラジオ・ニュースで、このことが、東京は勿論、全国に伝えられた。.2

 恒川氏は明智の眼を凝視しながら、考え込んでしまった。明智の言葉が何か恐ろしい秘密を暗示している。それがもう少しで分りそうな気がする。もう少しだ。もう少しだ。

 丁度その時、一間置いて隣の、客室のドアが、烈しくノックされたので、小林少年が出て行ったが、すぐ戻って来たのを見ると、手に一通の速達便を持っている。

「誰から?」

「差出人の名前がありません」

 少年が変な顔をして、その手紙を明智に渡した。

 明智はベッドに仰臥したまま、封を切ったが、二三行読むか読まぬに、サッと驚きの色をうかべた。

意外な下手人

「ごらんなさい。これが、犯人がまだ生きている、何よりの証拠です」

 読終わった明智が、その手紙を恒川氏に渡した。

「明智君、病気は如何です。それだから、いわぬことじゃない。僕は二度も警告状を差上げたではありませんか。流石の名探偵も少し手抜かりでしたね。僕が文代さんという絶好の獲物を、見逃がしておくとでも思ったのですか。

ところで、滑稽なことに、僕は死んでしまったのですよ。世間の目の前で死んで見せた。死骸は今でも仮埋葬になって、土の中にあります。

つまり、これは死人からの手紙です。だが、幽霊の書いた手紙が、本当に配達されるなんて、ちと変ですね。

さて、用件というのは、やっぱり同じ警告です。本当に手を引いてもらいたいのです。君は病床にありながら、こりもせず、探偵の仕事を続けている。現に今朝から小林君が何をしたか、僕にはすっかり分っているのです。そいつをやめてもらい度い。でないと、今度こそは、君自身の命が危いのです。

この手紙が着く頃には、どこかで、また別の殺人事件が起っているかも知れない。君がいくら邪魔立てしようとも、僕の予定は微塵も変更されないのです。つまり、君がヤキモキすることは、犯罪の阻止にはならず、かえって、君自身の寿命を縮めるばかりです。悪い事はいいません。即刻この事件から手をお引きなさい。これが最後の警告です」

「いやに鄭重な文句で人を小馬鹿にしている。僕はこんな侮辱を受けたことはありません」

 明智は、仰臥したまま、恐ろしい目で、天井をにらみつけて、ひとり言のようにうなった。

 恒川氏は、明智の言葉の適中に驚くばかりで、まるで幽霊の様な怪賊の正体を、どう想像して見る力もなく、黙り込んでいたが、しばらくして、ふとそれに気づくと、イライラしながらいった。

「この手紙の着く頃には、どこかで、また別の殺人が行われる、と予告をしている」

「それが侮辱です。我々はそれを予防する力がない。殺人は間違いなく起るでしょう」

 明智は賊の魔力を信じている様に見えた。

 丁度その時、次の部屋の卓上電話が、けたたましく鳴り響いた。

 文代さんが立って行って、受話器を取った。

「モシモシ、明智さんですか。私、三谷です。今畑柳にいるのです。アア、あなたは文代さんですね。また、恐ろしい事が起ったのです。執事の斎藤老人が、何者かに殺されたのです。明智さんのお身体の具合がよかったら、是非御出でを願い度いのです」

 文代が驚いて、明智はまだ起きられぬ旨を答えると、

「では兎も角、この事をお伝えしておいて下さい。いずれお伺いして、くわしいお話をします」

 と電話が切れた。

 文代さんが部屋に帰って、そのことを告げると、明智は、ベッドに上半身を起して、

「文代さん、服を取って下さい。僕はこうしてはいられない」

 とあせるのを、恒川氏と文代さんとで、やっと思い止らせ、畑柳家へは、警部と小林少年が駆けつけることになった。

「じゃ、向へついたら、すぐ電話で模様を知らせて下さい」

 明智は肩の痛みに、仕方なくベッドに横たわったものの、まだあきらめ切れぬ体だ。

 間もなく下の玄関から自動車が来たとの知らせ。恒川氏と小林少年とは、外套に片手を通しただけで、階段をかけ降りた。そして、二人を乗せた自動車は畑柳家へとフル・スピードで走り出した。

 恒川警部と小林少年が、畑柳邸に着くと、真青になった三谷青年が、あわただしく出迎えて、一間に招じ入れた。

「丁度今明智君と事件について話し合っていた所です。明智君は、賊はまだ生きている、犯罪は落着したのでないと主張していましたが、それがこんなに早く裏書されようとは、実に意外でした」

 恒川氏は、賊からの予告の手紙のこと、続いて当家から電話があったこと、明智はまだ外出できぬので、兎も角小林少年を同行してかけつけたことなどを、手短に語った。

「賊が、今日の事件を予告したとおっしゃるのですか」

 三谷がいぶかしげにたずねる。

「そうです。その手紙を読んでいる所へ、申合わせたように、あなたからの電話でした」

「賊というのは、例の唇のない奴のことでしょうね」

「無論、あいつです。風船で逃げた奴は換玉だったと考える外はありません」

「イヤ、そんな筈はない」

 三谷はなぜか、苦悶、困惑の表情を浮かべて、

「斎藤老人は全く過失の為に殺されたのです。賊の意志が働いているとは思えません。あの人が賊の同類だなんて、そんな馬鹿なことがあるものですか」

 恒川氏は三谷の異様な言葉を聞き漏らさなかった。

「あの人とは?……ではもう下手人が分っているのですか」

「分っているのです。全く過失の殺人なのです」

 三谷は青ざめた顔を、泣き出し相にゆがめて、苦悶の身もだえをした。

「誰です。その犯人というのは」

 警部がつめよる。

「僕が悪いのです。僕がいなかったら、こんな事は起らなかったのです」

 三谷青年が、これ程取乱すのは、よくよくのことに相違ない。

「誰です。そして、その犯人はもう逮捕されたのですか」

「逃げたのです。併し、子供を連れた女の身で、逃げおおせるものではありません。あの人は間もなくつかまるでしょう。そして恐ろしい法廷に立たなければならないのです」

「子供を連れた、女ですって? では若しや……」

「そうです。ここの女主人の倭文子さんです。倭文子さんが、過って斎藤執事を殺したのです」

 恒川氏は、余りに意外な下手人にあっけにとられてしまった。

「僕が倭文子さんの好意にあまえ過ぎたのです。僕が若かったのです。賊のことで、少しばかり尽力したのを、皆に感謝されていると思って、いい気になり過ぎたのです。執事の老人にしては、目にあまる様な振舞もなかったとはいえません。とうとう老人が、倭文子さんにそのことをいい出したのです」

 風船男の溺死によって、畑柳家に禍する悪魔は亡びてしまった、と誰しも考えた。大事件が終息すると、その蔭に隠れていた小事件が、ひどく目立って来るものだ。

 老人が倭文子さんと三谷青年との、みだらな関係を苦々しく思い出したのは無理もない。それがとうとう爆発したのだ。

 朝から訪ねて来た三谷と二人切りで、一間にこもっていた倭文子を、老人が外の用事にかこつけて、別室へ呼び出した。

 倭文子も大方それと察したのであろう。召使達に聞かれることを恐れて、先に立って、二階の書斎へ入って行った。

 二人はそこで長い間口論を続けた。激した言葉が、偶然外の廊下を通りかかった女中の耳にさえ、漏れ聞えた程だ。

 いつまで待っても、二人とも降りて来る様子がないので、一同少し心配になり出した。

「ひっそりして、話声も聞えやしない。どうしたんでしょう。変だわね」

 立聞きの好きな女中が、二階から降りて来て、一同に報告した。

 結局、三谷が指図をして、書生に見せにやることになった。

 書生が、再三ノックしたあとで、ソッとドアを開くと、そこに恐ろしい光景があった。倭文子が血みどろの短刀を手にして、気違いの様な目つきで、老人の死骸の側にうずくまっていた。

 恐ろしい光景を、一目見た書生は、ドキンとして立ちすくんでしまった。

 倭文子の方でも、非常にびっくりしたらしく、ちょっとの間、ガラスの様に無情な目を、一杯に見開いて、書生の顔を見ていたが、血みどろの短刀を持った手を、ゆっくり上げ下げしながらさも極り悪そうに、ニヤニヤ笑い出した。

 書生は「ワッ」といって、逃げ出したい程の恐怖を感じた。てっきり、女主人は発狂したものと思った。

「奥さん、奥さん」

 といったまま、二の句がつげなかった。

 書生が階段を、黒い風の様に、音もなくすべり降りて来て、突っ立ったまま、唇をワナワナふるわせているので、一同忽ち兇変を悟った。

 ドヤドヤと書斎へ上って見ると倭文子は、まだ元の姿勢で、短刀をゆっくりゆっくり、上げ下げしていた。

 被害者の斎藤老人はと見ると、心臓の一突きで、もろくも絶命していた。

 倭文子は昂奮のあまり、半狂乱の体なので、兎も角気を静めるために、階下の彼女の寝室へつれおろした。別にもがく様なこともなく、一言も口を利かなかった。口を利く力もないのだ。

 急報によって、警察から、続いて検事、予審判事などが駆けつけた。畑柳家を廻って続発する奇怪事に、彼等がこの突発事件を非常に重大に考えたのは当然である。

 型の如く取調べが進められた。

 兇行現場の書斎は、窓はすべて締りが出来ていたし、隣室との境は厚い壁、入口といっては、書生の開いたドアばかりだ。倭文子以外に犯人を想像することは、絶対に不可能である。

 また、倭文子が下手人であることは、本人のおびえ切った態度が証明している。尋ねられると、

「わかりません。私わかりません」

 と、歯をガチガチいわせながら、上ずった声で答えるのみで、直接自白はしないけれど、下手人でなかったら、キッパリした返答が出来ぬ筈はないのだ。

 倭文子は、自室の隅っこで、渋面を作った茂少年を、抱きかかえて、ブルブル震えていたので、一同、まさか彼女が逃亡するとは思わず、つい目を離して、現場調査や召使の訊問を続けていた。

 ところが、調べが終って、いざ拘引しようと、その部屋へ引返して見ると、倭文子と茂少年の姿がない。邸中隈なく探し廻っても、どこにも見えぬ。表へ駈け出して見ても、その辺に影も形もない。女の身で、子供までつれて、大胆不敵にも、彼女は逃亡したのだ。

「ソレッ」というので、警官達は、本署に電話をかけて、手配を頼む。手分けして、捜索に走り出す。という騒ぎだ。

 裁判所の一行も、続いて引取って行く。邸内は嵐のあとの様に、静まり返ったが、それから約一時間、まだ警察から何の知らせもない。倭文子はつかまらぬのだ。

「しかし、子供づれの女が、どうして長く身を隠していることが出来ましょう。やがて、つかまるのは極ってます。そして牢獄です。法廷です。しかも、こんなことになった元はといえば、この僕です。僕はどうしていいか分りません。明智さんに電話をかけたのは、この僕の気持をお話しして、智恵がお借りしたかったのです。僕はこんな明白な事実を、どうしても信じることが出来ません。あの倭文子さんに本当に殺意があったとは思えないのです」

 三谷青年は、はけ口のない苦しみを、恒川警部にぶちまけた。

「実に意外です。僕にしたって、あの畑柳夫人が、人殺しをしようなどとは信じられません。しかし部屋の中に、外には誰もいなかった。しかも、あの人が兇器を握っていたというのは、残念ながら、動かし難い証拠ですね」

「そうです。証拠といえば、もっと悪いことがあるのです」

 三谷は、唇をなめなめ、しわがれた声で話しつづける。

「書斎で倭文子さんと斎藤老人が、争っている声を、女中が漏れ聞いたのです。……」

 その女中が予審判事の前で、ハッキリと陳述した所によると……

「お前を解雇します。たった今、出て行って下さい」

 と、倭文子の甲走った声が叫んだ。日頃の彼女が、夢にも口にすべき言葉でない。これを以ても、その時二人が、如何に激し合っていたかが分るのだ。

「出て行きません。なくなられた御主人に代って、あなたに忠告致します。どうあっても、あとへは引きません」

 老人のピリピリふるえる声だ。

「女とあなどって、何をいうのです。もう我慢が出来ません。私は気違いです。エエお前のいう通り、気が違ったのです。気違いが何をするか見ていらっしゃい。後悔してもおっつきませんよ」

 と、大体その様な、言葉のやり取りを、女中が聞取っていた。

「その、後悔してもおっつきませんよ。といったのは、どういう意味だと思ったか。殺してやるぞと、短刀でも握っている様子だったか?」

 予審判事が、尋ねると、女中は、

「そうの様にも、思えました」

 と答えた。

「こういうことがあったのです。つまり、辻褄が合っているのです。この殺人事件には、動機もあり、その意志もあったと、見れば見られるのです」

 三谷が絶望の身振りでいった。

 恒川氏は慰める言葉を知らなかった。どう考えて見ても、すべての事情が、倭文子の犯罪を語っている。これでは逃れる道がない。女の身で、ちょっとあり相もない事だけれど、物のはずみは恐ろしい。ふとした口論が、思わぬ犯罪をひき起すのは、間々あること、女とて、恋には、男も及ばぬ暴挙をあえてするものだ。

 彼等は、暫く黙り込んでいた。三谷は三谷の物思いに、恒川氏は恒川氏で別のことを。

 別の事というのは、さっき明智が受取った、賊の予告状と、それと申し合わせた様に突発した、この事件とを、如何に結びつけるかであった。全く聯絡がない様にも見える。また、何かしらつながりがなくてはならぬ様にも思われる。

 それにしても、唇のない怪物と、彼奴に狙われた倭文子とが、同類だなんて、そんな馬鹿なことがあるだろうか。

 と、そんなことを思い耽っていた恒川氏は、その時、腰をかけているお尻の辺を、チョイチョイと、突くものがあるのに気づいた。

 横を見ると、隣にかけていた、小林少年の手が、自分のうしろへ伸びている。

 おかしなことをすると思って、少年の顔を眺めると、彼は目であるものを指し示していた。テーブルの上の、菓子器の中だ。

 菓子器の中には、羊羹が並んでいる。見ると、その一つに、誰かがたべさしのまま残しておいたと見えて、かじりかけの歯型が、ハッキリついている。

 子供らしい目のつけ所だと、ちょっとおかしくなったが、しかし、子供の直覚は馬鹿にはならぬ。若しもこの歯型が、明智の持っている、賊の歯型と一致したらと思うと、何かしらゾッとしないではいられなかった。

「三谷さん、変なことを聞くようですが、この羊養は誰がたべさしておいたのです。ご存じありませんか」

 念の為に聞いて見ると、三谷は妙な顔をして、暫く考えていたが、

「アア、それは、確か倭文子さんです。今朝、あの騒ぎが起る前、ここで僕と二人切りでいる間に、かじったのです。いつもお行儀のいい人が、今日に限ってあんなことをすると、変に思ったので、よく覚えています。しかし、それがどうかしたのですか」

 と意外な答えだ。

 恒川警部は、ドキンとした。アア、これが倭文子さんの歯型なのだ。この歯型と、賊の歯型とくらべて見て、万一同じであったら、どういう事になるのだ。と思うと、何ともいえぬ戦慄が、腹の底から、込み上げて来た。

「アア、僕はこうしてはいられません。少しも当はないけれど、倭文子さんを探して来ます。じっとしているよりましです」

 三谷は、そんなことを独言のように口走ったかと思うと、ヒョロヒョロと立上って、挨拶もせず、客を残したまま、どこかへ出て行ってしまった。

「可哀相に、少しのぼせ上っているようだね」

 恒川氏は、小林少年を顧みて、苦笑した。

「あの歯型のついた羊かん、持って帰って、比べてみましょうか」

 少年は歯型の発見に、夢中になっている。

「それがいい、君これを持って、一度帰り給え。そして、明智君に事情を話して下さい。僕はまだ少し調べたいこともあるから、ここに残っている。用事があったら電話をかけてくれ給え」

 恒川氏は、小林の熱心につり込まれて、つい歯型を比べさせて見る気になった。

 少年が立去ると、警部は二階の書斎に上って、兇行のあとを、入念に調べて見たけれど、別段の発見もなかった。窓はすべて厳重に締りが出来ていた。室内に人の隠れる場所とてもない。つまり、現場には、倭文子さんの外に、犯人の入り込む余地がなかったのだ。

 といって老人が自殺する道理がない。いくら考えても、倭文子さんの外に下手人はないのだ。

 書斎を調べ終ると、二階を降りて、庭に出て見た。これという目的があったのではない。ただ庭園から建物全体を、一度見ておこうと思ったのだ。

 ところが、庭に降りて、少し歩いたかと思うと、妙なものにぶつかった。

 小牛程もある大きな犬が、庭の隅に倒れていたのだ。いうまでもなく飼犬のシグマである。眉間をひどくなぐられたと見えて、血がにじんでいる。邸内に犬殺しが入り込む筈はない、一体誰が、何の為に、この犬を殺したのか。

 不思議に思って、書生や女中達に尋ねて見たが、誰も知らぬとの答えだ。ずっと犬小屋につないであったのが、いつか賊にやられた傷が、ほとんど治癒したので、今朝鎖を解いてやったばかりだと、いうことであった。

 そんなことをしている所へ、明智から電話がかかって来た。もう小林少年がアパートの病室へ、帰りついたものと見える。受話器をとると、明智のやや昂奮した声が聞えて来た。べッドを降りて、態々卓上電話まで歩いたのだ。自身電話口へ出なければならぬ程の、用件があるのかしら。

「モシモシ、恒川さんですか。歯型をくらべて見ました。ピッタリ一致します。あれが倭文子さんの歯型なら、倭文子さんこそ、我々の探している怪賊だという、妙な結論になります」

「本当ですか」恒川氏はびっくりして叫んだ、「僕には何だか信じられん。どっかに間違いがあるような気がしますね」

「僕もそう思うのです。あれが倭文子さんの歯型だという証拠は?」

「三谷君の証言です。キッパリいい切ったのです」

「三谷君がね」

 明智はそういって、暫く考えている様子だったが、やがて、

「ところで、そこにシグマという飼犬がいる筈ですね。あれはまだ犬小屋につないでありますか」

 恒川氏はギョッとした。今その犬の死骸を見たばかりではないか。明智は何という怖い男だ。

「今朝鎖を解いたのだ相です。しかし、その犬は、いつの間にか、誰とも知れず、殺されているのです」

「エッ、殺された。どこで?」

 明智は何故、そんなに驚くのだ。

「庭の隅にころがっているのを、今僕が発見した所です」

「アア、恐ろしい奴だ。そいつを殺した奴が真犯人ですよ。なぜって、犯人を本当に知っているのは、広い世界に、その犬の外にはないからです。人間の目は、仮面や変装でごまかされても、犬の嗅覚は、滅多にごまかせませんからね。……僕の気づきようが、少し遅かった」

 明智はさもさも残念そうにいった。

母と子

 恐ろしい執事殺しの下手人となり、その上、彼女こそ唇のない怪物ではないかと、途方もない疑いさえ受けた、可哀相な畑柳倭文子は、一体全体どこへ身を隠していたのか。それにはまた、一場の戦慄すべき物語りがあるのだ。

「それでは、なくなられた旦那様にすみますまい。世間体もあります。御親戚の口もうるさい。いや第一、六つにもなる坊ちゃんにお恥じなさい」

 口論がこうじて、老人も強い口を利いた。

 そう責められると、倭文子は弱味がある丈けに、カッとした。

 一体彼女は、これまでのやり方でも分る通り、年長の夫の極端な愛撫に、我まま一杯に暮らして来た、感情ばかりの女だ。いい出したことはやり通す、勝気の様だが、実は大きな駄々っ子に過ぎない。

 その彼女が、いわば召使の斎藤老人に、弱点をつかれ、あまつさえ、なき夫の口からも聞いたことのない、はげしい叱責を受けて、くやしさに、のぼせ上ったのは無理もない。

「たった今出て行って下さい。傭人の癖に生意気な!」

 あられもない暴言が、口をついてほとばしる。我まま者の癖として、彼女はもう目がくらんでいたのだ。一時的狂気の発作に襲われていたのだ。

 目はしの利かぬ老人は、こらえこらえた諌言だけに、容易にあとへ引こうとはせぬ。

「出て行きませぬ。どちらのいい分が正しいか、御親戚の御批判を待ちましょう」

 とまでいわれては、もう我慢が出来ぬ。倭文子は、じだんだを踏んで、その辺の品物を、手当り次第に投げつけてやりたい程、くやしがった。

「憎い憎いおいぼれ親爺め、くたばってしまえ。くたばってしまえ」

 口には出さなかったけれど、心の中の毒血が、その様にわき立った。

 主人を押えつけ様と、世間体を口実に、のしかかって来る、渋皮親爺の顔を見ていると、歯ぎしりが出た。額のしわも、長い眉も、白っぽい目も、ワシの様な鼻も、入歯の口元も、どれもこれも、たたきつぶしてやりたい程、憎たらしく思われる。

「サア、出て行って下さい。でないと、あたし、かん癪持ちだから、どんなことをするか分らなくってよ」

 倭文子はもう、この老人と取組み合いでもしかねまじき権幕だ。

「サア、おのき、お前の顔を見ていると胸が悪くなる。おのきったら!」

 彼女は老人を掻きのけて、室外へ立去ろうとした。

 老人の方では、今逃げられてはと、一こくに押し戻す。押し戻したのが倭文子にしては、ひどく突き飛ばされた様に感じる。

「マア、主人に向って、何をするの?」

 カッとのぼせ上って、目の前が真っ暗になって、もう何が何だか分らなかった。気絶する程腹が立ったのだ。

 夢中で、老人にむしゃぶりついた様にも思う。また何かを持って、相手をたたきつけた様にも思う。あとになって考えて見ても激昂の極、目がくらんでしまって、何をしたのかハッキリは覚えていない。

 気がつくと、老人は彼女の前に長々と横たわっていた。その胸に真赤な花が咲いて、グサッと突立った短剣の柄。

「アラッ!」

 倭文子は、叫んだまま、足がすくんで、動けなくなった。

 覚えはない。決して覚えはない。だが、相手が胸を刺されて倒れているのは、動かし難い事実だ。自分が殺したのではなくて、外に誰がこんなことをするものか。

「あたし、気が違ったのかしら」

 あまりのことに信じ兼ねて、狂気の幻ではあるまいかと、両手で目をこすりながら、ヘタヘタと死骸の側へうずくまった。

「マア、可哀相に、さぞ痛かったでしょう」

 と、妙な気違いめいたことを口走りながら、思わず短剣の柄を握って、傷口から引き抜いた。

 書生の一人が、ドアを開いて、室内をのぞき込んだのは、丁度その時であった。

 倭文子が、夢中で譫言を口走っている処へ、書生の知らせで、召使達が、顔色を変えて、ドヤドヤと入って来た。

 沢山の顔のうしろに、三谷青年の目が、彼女を責めるように光っているのを見た時、倭文子は初めて、ワッと声を上げて泣き出した。この恐ろしい出来事が、夢でも幻でもなく、取返しのつかぬ現実だと、ハッキリ分ったからである。

 人々は彼女の手から、血みどろの短刀をもぎ離した。腰の筋肉が利かなくなっている彼女を、抱きかかえて、階下の居間へ運んだ。

 その間、彼女はただ、ドクドク、ドクドク、断末魔の様にうちつづける、心臓の音ばかり耳にしていた。ガヤガヤと騒ぎ立てる人声は、自分には何の関係もない、無意味な騒音としか聞こえなかった。

 泣きに泣いて、やっと正気に返った時には、茂少年が、訳は分らぬながら、やっぱり泣き顔になって、彼女の側に、ションボリと坐っているのに気づいた。

「茂ちゃん、母さまはね……」

 倭文子は、いとし子を抱きしめて、泣きじゃくりながらささやいた。

「飛んでもないことをしてしまったのよ。茂ちゃん、お前はね、可哀相に、可哀相に、もうこれっきり、母さまとお別れなのよ。一人ぼっちで暮らさなければならないのよ」

「母さま、行っちゃいや。どこへいくの? エ、なぜ泣くの?」

 六歳の少年には、事の次第がよく呑みこめぬのも無理ではない。

 アア、この子とも永久のお別れだ。今にも、今にも、警察の人達が来たならば、この場から引立てられるにきまっている。そして、絞首台はのがれられぬ運命だ。でも、これっ切り、我子と別れてしまうなんて、そんなむごたらしいことが、本当に起るのだろうか。別れるのはいやだ。子供も、恋人も、何もかもあとに残して、一人ぼっちで死んで行くのは耐らない。

「斎藤のおじちゃん、どうしたの? 死んでしまったの?」

 茂少年の無邪気な質問が、この小さなものにさえ、責められている様で、ゾッとする程恐ろしい。

「ねエ、どうしたの? 母さまが殺したの?」

 倭文子はギョッとして、思わず我子の顔を見つめた。アア、何ということだ。このいたいけな少年が、空恐ろしい直覚で、もうそれを感づいていようとは。

「母さまが殺したのよ。で、母さまも殺されるのよ」

 倭文子は泣き声をかみ殺した。

「誰が?」

 茂はびっくりして、泣きぬれた目をまん丸にした。

「誰が母さま殺しに来るの。殺しちゃいやだア、ねエ、早く、早く、逃げようよ。母さま、逃げようよ」

 母はそれを聞くと、喉の奥で「グッ」というような音を立てて、ハラハラと涙をこぼした。

「お前、人殺しの母さまと一緒に逃げてくれるの? マア、逃げてくれるの?……でもね駄目なのよ。逃げても逃げても、逃げられはしないの。日本中の何千何万という人が、みんな母さまを、つかまえようとして、四方八方から、目をギョロギョロさせているんだもの」

「可哀相ね。……でも、茂ちゃんが、母さま助けてやるよ。その人ひどい目に合わせてやるよ」

 ギュッと抱きしめられた、母のふところの中で、茂少年は、頬を真赤にして、力んでみせるのであった。

 間もなく、倭文子は予審判事の前に呼び出されて、質問を受けたけれど、うまく弁解する智恵も力もなかった。ただ、分りません、分りませんと繰返すばかりだ。

 取調べが済んで、また元の居間に戻り、茂少年と泣き合っている所へ、人目を忍んで三谷青年が入って来た。

 二人はじっと目を見合わせたまま、しばらくの間、だまっていたが、やがて青年が、恋人のそばへ近々と顔をよせて、ささやき声で、しかし力をこめていった。

「僕は信じませんよ。君がやったなんて、決して信じませんよ」

「あたし、どうしましょう。どうしましょう」

 倭文子は恋人三谷のやさしい言葉に、今更の様に、こみ上げて来る悲しみを隠そうともしなかった。

「しっかりなさい。失望してはいけません」

 三谷は、誰か聞く人がありはしないかと、あたりを見廻しながら、やっぱりささやき声で続けた。

「僕はあなたの無実を信じます。あなたがそんな女でないことを知り抜いています。しかし、どう考えても弁解の余地がない。あの部屋には被害者とあなたの外に、誰もいなかった。しかも、あなたは血まみれの短剣を握っていた。事件の起るすぐ前には、あなたは被害者とひどくいい争っていた。すべての事情が、皆あなたを指さしています。予審判事も、警察署長も、あなたを下手人ときめている様に見えます。考えて見て下さい。あの時、誰か部屋へ忍び込んだ奴はなかったのですか。何とかいい開きの道はありませんか」

 三谷の熱心な口調を聞いていると、広い世界に味方と頼むは、この人たった一人だと、感謝の涙があふれて来た。しかし残念ながら、彼を満足させるような答えは出来ぬ。

「あたし、分りません。どうしてあんな恐ろしいことが起ったのか少しも分りません」

 刑事の前でいった同じ言葉を繰返す外はなかった。

「倭文子さん、しっかりして下さい。泣いている時ではありません。このままじっとしていれば、二階の取調べが済み次第、あなたは警官に引立てられて行かねばなりませんよ。僕はあなたを、刑務所に送り、法廷に立たせるなんて、考えただけでも我慢が出来ない。倭文子さん、逃げましょう。僕と茂ちゃんと三人で、世界の果まで逃げましょう」

 三谷の思込んだ調子に、倭文子はハッと顔を上げた。

「マア、どうしてそんなことが」

 では、やっぱりこの人も、私を本当の下手人と信じているのだ。そうでなければ、逃げるなどといい出す筈がない。

「構わないのです。たといあなたが、本当の人殺しの罪人であったとしても、僕はあなたを牢獄に入れ、絞首台に送ることは出来ません。僕も半分の罪を引受けて、あなたと一緒に、世間から身を隠してしまいます。逃げ方についても、僕は充分考えたのです。実に安全な方法があるのです。こういう内にも人が来るといけない。サア、倭文子さん、決心をして下さい」

 ソワソワとせき立てられて倭文子は真青になった。胸は早鐘をうつ様だ。

「でも、…………」

 アア、無理もない、彼女は心が動いたのだ。たとい悪人でなくても、この場合、女の身で、目先にちらつく牢獄や絞首台を、一ときでも、一歩でも、遠ざかろうとあせるのは当り前だ。

「サア、早く、早く、こちらへいらっしゃい。僕が見つけておいた安全至極の隠れ場所があるのです。不気味でしょうが、夜ふけまで、二人でそこにひそんでいて下さい。あとは僕がいい様に計らいます。僕を信じて下さい。どんなことがあろうとも、あきらめないで、じっと辛抱していて下さい。万一逃げそくなった場合には、僕が凡ての責任を負います。僕があなたを脅迫して無理に逃がしたのだといいます」

 そうまでいわれて、弱い女に、どう反抗する力があろう。倭文子は、茂少年の手をとって(母も子も、一瞬間でも離れていることは出来なかった)足音を忍ばせ、おずおずとあたりに気を配りながら、三谷のあとに随って行った。

 幸い召使にも出会わず、たどりついたのは、台所横の物置部屋だ。三谷がそこの床板をめくり、土に覆われた石の蓋をのけると、驚いたことには、その下からポッカリと、真黒な洞穴の口が現れて来た。

「水のかれた古井戸です。危険なことはありません。この中で暫らく辛抱していて下さい」

 いいながら、三谷は敏捷に働いて、どこからか、大きな夜具を二枚も抱えて来て、その古井戸の中へ投込んだ。

 今にも人が来はせぬか、来はせぬかと、そればかり気にかけている際とて、三谷がどうして、主人の倭文子さえ少しも知らなかった、この床下の古井戸を発見したのかと、疑って見る隙もなかった。

 倭文子は、三谷の手を借りて、さして深くもない洞穴の中へ、ズルズルとすべり込んだ。

 下には二枚の大夜具が、厚いクッションの様に重なっているので、怪我をする心配は少しもない。続いて、茂少年が、同じ方法で井戸の底へおろされた。

「では、今夜一時頃に、きっと来ますから、それまで我慢していらっしゃい。茂ちゃん泣くんじゃないよ。ちっとも怖いことなんかありやしない。僕の腕を信じて、安心して待ってて下さい」

 頭の上で、三谷の囁き声がしたかと思うと、バラバラと土がおちて、井戸の中は、真の闇となった。石の蓋が出口をふさいだのだ。

 可哀相な母と子は、触覚ばかりの闇の中で、お互にひしと抱き合ったまま、ブルブル震えていた。考える力もない。泣くには余りに恐ろしい身の上だ。

「茂ちゃん。いい子ですから、怖わくないわね」

 母はただ愛児を気づかった。

「僕怖くないの、ちっとも」

 その癖少年の声は、恐怖に戦いていた。抱きしめた小さい体が、あわれな小犬の様に、ビクビクけいれんしていた。

 落ちつくに従って、井戸の底の寒さが身にしみた。

 それにつけても、何という行届いた三谷の心遣いであったか。あのあわただしい場合、よく蒲団のことまで気がついたものだ。そのお蔭で、古井戸の底の身にしむ寒気の中で、足の下ばかりは、フカフカと、厚いクッションの様に暖かいのだ。

 倭文子は、その夜具の端のあまった部分を、茂にもかけてやり、自分も肩にまいて、更に寒さをしのぐ工夫をした。

 だが、若しも彼女が、その厚い夜具の下に、何があるかを知ったならば、感謝するどころか、いかに刑罰が恐ろしいからとて、最早や一刻も、井戸の底に隠れている気はしなかったに相違ない。

 重なり合った夜具の下に、すぐ土があるのではなかった。夜具と土との間に、ある身の毛もよだつ物体が横たわっていたのだ。それが何であったかは、間もなく読者に分る時が来るであろう。

 それはさておき、三谷青年が企らんだ逃亡手段とは、如何なるものであったか。倭文子達は一先ず古井戸に隠れたけれど、そんな所に長くいられるものではない。いずれは邸を抜け出さなければならぬ。門前には見張りの巡査がいる。邸内には召使の目が光っている。たとえ無事に邸を出たとしても、どちらへ行くにも交番がある。近所の人目がある。倭文子がお尋ねものであることは、もう界わいに知れ渡っているのだ。それを三谷は、一体全体どうして抜け出す積りであろう。

 倭文子を井戸に隠してから、三谷が明智に電話をかけたこと、それによって、恒川警部と小林少年がやって来たことは前に記した。流石の恒川警部も、物置の床下に古井戸があろうとは気づかず、ただ羊羹の歯型を手に入れ、シグマの死骸を発見したばかりで、空しく引上げて行った。

 それから、深夜の一時――三谷が倭文子に約束した時間までは別段の出来事もなかった。八時頃、昼間三谷の指図で注文した大きな寝棺が届けられ、一同で斎藤老人の死骸をその中に納めた外には。

 寝棺は階下の広い日本間に安置され、香華をたむけ、夜更けるまで、家族や弔問客の読経の声が絶えなかったが、十二時前後、それらの人々も或は帰り去り、或は寝につき、電燈を消した真暗な広い部屋に、ただ老人の死骸だけがとり残された。

 一時と覚しき頃、その闇の広間へ、影の様に音もなく忍び込んだ人物がある。彼は手さぐりで老人の寝棺に近づくと、ソロソロとそのふたを開き始めた。

葬儀車

 闇の広間へ忍び込み、斎藤老人を納めた棺のふたを開いた男は、読者も想像された通り、三谷青年であった。

 だが、一体全体彼は何の為に、棺のふたなどを開いたのであろう。開いて、中の死体をどうしようというのか。

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