ぼくはきょう、ここへおたずねするまえに、いろいろな用件をすませてきたのですが、その門番をつとめた子どもに会ってみるのも、用件の一つでした。そして、よく聞きただしてみますと、その子どもは、けっして持ち場をはなれなかったし、わき見さえしなかったといいはるのです。子どもは、うそをつきませんからね。」
「で、その子どもは、わたしの姿を見たといいましたか。」
「いいえ、見なかったというのです。門をはいったものも、出たものも、ひとりもなかったと断言するのです。」
明智探偵は、そういって、じっと春木氏の美しい顔を見つめました。
「おやおや、すると、わたしまでがなんだか魔法でも使ったようですね。これはおもしろい。ハハハ。」
春木氏はなんとなく、ぎこちない笑い方をしました。
「ハハハ……。」
明智探偵も、さもおかしそうに、声をそろえて笑いましたが、その声には、何かするどいとげのようなものがふくまれていました。
「二を引きさって、二を加える。え、この意味がおわかりですか。すると、もともとどおりになりますね。かんたんな引き算と足し算です。」
探偵は何かなぞのようなことをいったまま、またべつの話にうつりました。
「ところで、ぼくはきょう、養源寺の墓地と篠崎家の裏庭で、おもしろいものを発見しましたよ。なんだと思います。その間をつなぐせまい地下のぬけ穴なんですよ。
養源寺と篠崎家とは、町名がちがっているし、表門はひどくはなれていますが、裏では十メートルほどのあき地をへだてて、まるでくっついているといってもいいのです。
インド人のやつは、この、ちょっと考えるとひじょうに遠いという、人間の思いちがいを利用したのですよ。そして、そこにわけもなく地下道を作って、あの煙のように消えうせるという魔法を使ってみせたのです。
養源寺の墓地には、古い石塔の台石を持ちあげると、その下にポッカリ地下道の入り口があいていましたし、篠崎さんの庭のほうは、穴の上に厚い板をのせて、その板の上にいちめんに草のはえた土がおいてありました。ちょっと見たのでは、ほかの地面と少しもちがいがないのです。穴のある近所は、いろいろな木がしげっていて、うす暗いのですからね。なんとうまいカムフラージュじゃありませんか。
インド人は、墓地の中で消えうせたときには、この地下道から篠崎家へ逃げこみ、篠崎家の宝石をぬすんだときには、やっぱり、この道を通って、養源寺のほうへぬけてしまったのです。その両方の地面は、表がわは、まるでちがう町なんですからね、わかりっこありませんよ。ハハハ……、これがインド人の魔術の種あかしです。」
聞いているうちに、春木氏の顔に、ひじょうなおどろきの色がうかんできました。でも、しいてそれをおしかくすようにして、
「しかし、宝石をぬすむだけのために、どうしてそんな手数のかかるしかけをしたんでしょうね。もっと手がるな手段がありそうなものじゃありませんか。」
と、なじるように、ききかえしました。
「そうです。おっしゃるとおり賊は、むだな手数をかけているのです。しかし、むだといえば、ほかにもっともっと大きなむだがあるのですよ。春木さん、そこがこの事件の奇妙な点です。また、じつにおもしろい点なのです。」
明智探偵が、それを説明するのがおしいというように、ことばを切って、相手の顔をながめました。
「もっと大きなむだといいますと?」
「それはね、インド人がまっぱだかになって、隅田川を泳いでみせたり、東京中の町々を、うろついてみせたりして、世間をさわがせたことですよ。
それからまた、篠崎さんのお嬢ちゃんと同じ年ごろの子どもを、二度も、わざとまちがえてさらったことですよ。
いったいなんのために、そんなむだなことをやってみせたのでしょう。え、春木さん、あなたはどうお考えになります。」
「さあ、わたしにはわかりませんねえ。」
春木氏は青ざめた顔で、少しそわそわしながら答えました。
「おわかりになりませんか。じゃ、ぼくの考えを申しましょう。それはね、賊は広告をしたかったのですよ。わたしは、こんなまっ黒なインド人ですよ、わたしは篠崎家のお嬢ちゃんをさらおうとしていますよ、と、世間に向かって、いや世間というよりも、篠崎のご主人に向かって、これでもかこれでもかと、告げ知らせたかったのです。そして、篠崎さんが、さては、インド人が本国から、のろいの宝石を取りもどしにやってきたんだなと、信じこむようにしむけたのです。
なぜでしょう。なぜそんな、ばかばかしい広告をしたのでしょう。
もし、ほんとうのインド人が、復しゅうのためにやってきたのなら、広告するどころか、できるだけ姿を見られないように、世間に知られないように骨を折るはずじゃありませんか。つまり、まるであべこべなのです。すると、その答えは、やっぱりあべこべでなければなりません。」
「え、あべこべといいますと。」
春木氏が、びっくりしたようにききかえしました。
ちょうどそのときでした。ふたりの会話の中のあべこべということばが、そのまま形となって、部屋のいっぽうの窓の外にあらわれたではありませんか。
ガラス窓のいちばん上のすみに、ひょいと人間の顔があらわれたのです。それが、まるで空からぶらさがったように、まっさかさまなのです。つまりあべこべなのです。
その男は、ガラス窓の外のやみの中から、髪の毛をダランと下にたらし、まっかにのぼせた顔で、さかさまの目で、部屋の中のようすをジロジロとながめています。
いったいどうして、人の顔が、空からさがってきたりしたのでしょう。じつに、ふしぎではありませんか。
いや、それよりもみょうなのは、春木氏がそのガラスの外のさかさまの顔を見ても、少しもおどろかなかったことです。その顔に何か目くばせのようなことをしました。
すると、さかさまの顔は、それに答えるようにあいずのまばたきをして、そのまま空のほうへスーッと消えてしまいました。
いったいあれは何者でしょう。なんだか、ついさいぜん見たばかりのような顔です。ああ、そうです、そうです。ほかでもない春木氏のやとっているコックなのです。さっき紅茶を運んできた召し使いなのです。
それにしても、なんというへんてこなことでしょう。コックが家の外の空中からぶらさがってきて、窓をのぞくなんて、話に聞いたこともないではありませんか。
でも、その窓は、ちょうど明智探偵のまうしろにあったものですから、探偵はそんな奇妙な人の顔があらわれたことなど少しも知りませんでした。
みなさん、なんだか気がかりではありませんか。明智探偵は大じょうぶなのでしょうか。もしやこの家には、何かおそろしい陰謀がたくらまれているのではないでしょうか。
屋上の怪人
明智探偵は何も知らずに話しつづけました。
「あべこべといいますのはね、この事件の犯人は、彼が見せかけようとしたり、広告したりしたのとは、まるで反対なものではないかということです。
つまり、犯人は黒いインド人ではなくて、その反対の白い日本人であった。篠崎さんのお嬢ちゃんをさらったのも、いかにも宝石につきまとうのろいのように見せかける手段で、けっして命をとろうなどという考えはなかったということです。
それがしょうこに、緑ちゃんも小林君も、ちゃんと助かっているじゃありませんか。もしほんとうに殺すつもりだったら、あれほど苦心してさらっておきながら、最期も見とどけないで、たちさってしまうわけがないのです。
すべては世間の目を、べつの方面にそらすための手段にすぎなかったのですよ。それほどまでの苦労をしなければならなかったのをみると、この犯人は、よほど世間に知れわたっているやつにちがいありません。ね、そうじゃありませんか。」
「では、あなたは、犯人はインド人じゃないとおっしゃるのですか。」
春木氏が、みょうにしわがれた声でたずねました。
「そうです。犯人は日本人にちがいないと思うのです。」
探偵は微笑をうかべながら、じっと春木氏を見つめました。
「でも、たしかにインド人がいたじゃありませんか。わたしが部屋を貸したことは、かりに信用していただけないとしても、ここの二階にいたのを子どもたちが見たということですし、聞けば、小林君とお嬢ちゃんとが乗った車の運転手と助手が、いつのまにか黒ん坊にかわっていて、ふたりはそれをたしかに見たといっていましたが。」
「ハハハ……。春木さん、それがみんなうそだったとしたら、どうでしょう。
小林君のいうところによりますと、最初あの自動車に乗ったとき、助手席にいたのは、たしかに篠崎さんの秘書の今井君だったそうです。それがどうして、とつぜん黒ん坊にかわったのでしょう。
いや、そればかりではありません。ちょうどそのころ、ほんものの今井君は、養源寺の境内に、手足をしばられてころがっていたのですよ。
ひとりの今井君が、同時に二ヵ所にあらわれるなんて、まったく不可能なことじゃありませんか。春木さん、この点をぼくは、じつにおもしろく思うのです。こんどの事件のなぞをとく、いちばんたいせつなかぎが、ここにあると思うのですよ。」
それを聞くと、春木氏はニヤニヤとみょうな微笑をうかべて、さも感心したようにいうのでした。
「ああ、さすがは名探偵だ。あなたはそこまでお考えになっていたのですか。そして、そのふしぎはとけましたか。」
「ええ、とけましたよ。」
「ほんとうですか。」
「ほんとうですとも。」
そして、ふたりはしばらくのあいだ、だまりこんだまま、ひじょうに真剣な表情になって、にらみあっていました。まるで、おたがいの心の底を見すかそうとでもしているようです。
「説明してください。」
春木氏は青ざめた顔に、いっぱい汗の玉をうかべて、ためいきをつくようにいいました。
「自動車の中で、ふたりのものが、とつぜん黒ん坊にかわったのは、子どもだましのようなかんたんな方法です。ほかでもありません。車が走っているあいだに、うしろの客席から見えないように、ソッとうつむいて、用意の絵の具――たぶん、すすのようなものでしょう――それで顔と手を、まっ黒に染めたのです。
じつにわけのない話です。変装のうちで、黒ん坊に化けるほど、たやすいことはありませんからね。ぼくは念のために、小林君に、うしろから見える首すじのあたりの色はどうだったとたずねてみましたが、そこは洋服のえりと鳥打ち帽とで、少しも皮膚が見えないように、用心ぶかくかくしてあったということです。」
「で、今井という秘書が、同時に二ヵ所にあらわれたなぞは?」
春木氏は、まるではたしあいでもするような、おそろしく力のこもった声でたずねました。
「たいへん気がかりとみえますね、ハハハ……、それは、犯人が今井君をしばって、その服を着こみ、顔まで今井君に化けたと考えるほかに、方法はありません。
しかし、犯人が今井君とそっくりの顔になれるものでしょうか。ほとんど不可能なことです。でもひろい日本に、たったひとりだけ、その不可能なことのできる人物があります。」
「それは?」
「二十面相です。」
探偵はじつに意外な名まえを、ズバリといって、じっと相手の目の中をのぞきこみました。息づまるようなにらみあいが、三十秒ほどもつづきました。
「二十面相」とはだれでしょう。むろん読者諸君はごぞんじのことと思います。二十のちがった顔を持つといわれた、あの変装の大名人です。今は獄中につながれているはずの、希代の宝石泥棒です。
「おい、二十面相君、しばらくだったなあ。」
明智探偵が、おだやかなちょうしでいって、ポンと春木氏の肩をたたきました。
「な、なにをいっているんです。わたしが、二十面相ですって?」
「ハハ、しらばっくれたって、もうだめだよ。ぼくは今しがた、刑務所へ行ってしらべてきたんだ。そして、あそこにいるのは、にせ者の二十面相だということがわかったのだ。
きみは、さいぜんから、ぼくがなぜ、あんな話をクドクドとしていたと思うのだい。それはね、話をしながら、きみの顔を読むためだったんだよ。つまりきみを試験していたというわけさ。
するときみは、ぼくの話が進むにつれて、だんだん青ざめてきた。そわそわしだした。見たまえ、いっぱいあぶら汗が出ているじゃないか。それが何よりの自白というものだ。
二を引いて二を足すと、もともとどおりだったねえ。つまり、きみときみのコックとが、今井君と運転手に化けたうえ、少年探偵団の子どもたちをだますために、ふたりのインド人になって、みょうなお祈りまでして見せた。
そのインド人が、そのまま、もとのきみとコックにもどればよかったのだから、いくら見はっていても、インド人も逃げださなければ、きみも外からはいってこなかったというわけさ。もともと四人ではなくて、ふたりきりのお芝居だったんだからね。
だが、二十面相が人殺しをしないという主義をかえないのは感心だ。むろんきみは最初から小林君と緑ちゃんは、助けるつもりだったのだろうね。」
探偵がいいおわるかおわらぬに、部屋中にとほうもない笑い声がひびきわたりました。
「ワハハハ……えらい、きみはさすが明智小五郎だよ。よくそこまで考えたねえ。その骨折りにめんじて白状してやろう。いかにもおれは、きみのこわがっている二十面相だよ。
だがねえ、明智君、これはきみの大失敗を、きみ自身でしょうこだてたようなものなんだぜ。わかるかい。
きみはいつか、博物館でおれを逮捕したつもりで、大いばりだったねえ。世間も、やんやと喝采したっけねえ。
ところが、あれはみんなうそだったということになるじゃないか。え、探偵さん、きみもとんだやぶへびをしたもんだねえ。
つまらないせんさくだてをしないで、おれを見のがしておけば、きみはいつまでも英雄でいられたんだぜ。それを、こんなことにしてしまっちゃ、きみの名折れじゃないか。博物館でとらえたのは、あれは二十面相でもなんでもない、ただのへっぽこの野郎だったということを、世間に広告するようなもんじゃないか。
ハハハ……、ゆかいゆかい、おれがいったい、あんなへまをする男だとでも思っているのかい。白ひげの博物館長さんが、じつは怪盗二十面相だったなんて、いかにも明智先生ごのみの思いつきだ。つまりおれは、きみのとびつきそうなごちそうをこしらえて、お待ち申していたのさ。
すると案のじょう、きみはわなにかかってしまった。博物館長に化けていたおれの部下を、二十面相と思いこんでしまった。おれのほうで、そう思いこませるようにしむけたのさ。
むりもないよ。おれにはきまった顔というものがないんだからね。おれ自身でさえ、ほんとうの自分が、どんな顔なのか、わすれてしまったほどだからねえ。
だが、博物館の前で、チョコチョコと逃げだして、子どもたちに組みふせられるなんて、二十面相ともあろうものが、あんなへまをするとでも思っていたのかい。あれが二十面相の最後では、ちっとばかりかわいそうというもんだよ。」
二十面相は、まくしたてるようにしゃべりつづけて、またしても、われるように笑うのでした。
「たいへんな勢いだねえ。だが、昔のことはともかくとして、けっきょく、勝利はぼくのものだったじゃないか。せっかくのインド人の大芝居も、とうとう見やぶられてしまったじゃないか。」
明智探偵は少しもさわがず、にこにこと微笑しながら答えました。
「インド人の大芝居か。おもしろかったねえ。おれはね、篠崎氏があるところで、宝石のいんねん話をしているのを、すっかり聞いてしまったんだよ。そして、むやみにあの宝石がほしくなったのさ。そこで、宝石を手に入れたうえ、世間をアッといわせてやろうと、あの大芝居を思いついたのだよ。
インド人が犯人だとすれば、まさか二十面相をうたがうやつはないからね。ただ宝石だけぬすんだのじゃあ、なにしろ金目のものだから、警察の捜索がうるさいのでねえ。
ところで、きみはおれをどうしようというのだい。たったひとりで、二十面相の本拠へとびこんでくるなんて、少し無謀だったねえ。気のどくだけれど、かえりうちだぜ、きみをもうこの部屋から一歩だって出しゃあしないぜ。」
二十面相は、追いつめられたけだもののような、ものくるわしい形相で、明智探偵につかみかからんばかりです。
「ハハハ……、おい、二十面相君、ぼくがひとりぼっちかどうか、ちょっとうしろを向いてごらん。」
探偵のことばに、二十面相はギョッとして、クルッと、うしろの戸口のほうをふりむきました。
すると、ああ、これはどうでしょう。いつのまにしのびこんだのか、いっぱいにひらかれたドアの外には、おしかさなるようにして、五人の制服警官が、いかめしく立ちはだかっていました。
「ちくしょうめ! やりゃあがったな。」
二十面相は、ふいをうたれて、よろよろとよろめきながら、さもくやしそうにわめきました。そして、いきなり、いっぽうの窓のほうへかけよります。
「おい、窓からとびおりるなんて、つまらない考えはよしたほうがいいぜ。念のためにいっておくがね、この家のまわりは、五十人の警官がとりかこんでいるんだよ。」
明智探偵が二の矢をはなちました。
「ウー、そうか。よく手がまわったなあ。」
二十面相は窓をひらいて、暗やみの地上を見おろすようなしぐさをしましたが、またクルッとこちらを向いて、
「ところがねえ、たった一つ、きみたちの手のとどかない場所があるんだよ。これがおれの最後の切り札さ。どこだと思うね。それはね、こうさ!」
いいはなったかと思うと、二十面相の上半身が、グーッと窓の外へ乗りだし、そのままサッとやみの空間へ消えさってしまいました。
それはまるで機械じかけの人形が、カタンとひっくりかえるような、目にもとまらぬ早わざでした。
二十面相は、いったい何をしたのでしょう。窓の外へとびおりて、逃げさるつもりだったのでしょうか。しかし、明智探偵はうそをいったのではありません。この洋館のまわりは、ほんとうに数十人の警官隊がとりまいているのです。そのかこみを切りぬけて、逃げだすことなど思いもおよびません。
明智探偵は、二十面相の姿が窓の外に消えたのを見ると、急いでそこにかけより、地上を見おろしましたが、これはふしぎ、地上にはまったく人の姿がありません。
やみ夜とはいえ、階下の部屋の窓明かりで、庭がおぼろげに見えているのですが、その庭に、今とびおりたばかりの二十面相の姿がないのです。
「おい、ここだ、ここだ。きみはあべこべの理屈をわすれたのかい。おれはとびおりたのでなくて、昇天しているんだぜ。悪魔の昇天さ。ハハハ……。」
空中からひびく二十面相の声に、ひょいと上を見た探偵は、あまりの意外さに、思わず「アッ。」と声をたててしまいました。
ごらんなさい。二十面相はまるで軽業師のように、大屋根からさがった一本の綱をつかんで、スルスルと屋上へとのぼっていくではありませんか。ほんとうに悪魔の昇天です。
探偵には見えませんでしたけれど、大屋根の上には、白い上着を着た例のコックが、足をふんばって、屋根の頂上にむすびつけた綱を、グングンと引きあげています。下からはたぐりのぼる力、上からは引きあげる力、その両ほうの力がくわわって、二十面相はみるみる大屋根にのぼりつき、かわらの上にはいあがってしまいました。
さいぜん、窓からコックの顔がのぞいたのは、綱の用意ができましたよというあいずだったのです。彼はたぶん綱のはしにからだをくくりつけて、さかさまに窓の外へぶらさがったのでしょう。
こうして、怪盗の姿は、またたくまに、明智探偵の目の中から消えてしまいましたが、しかし、屋根の上などへ逃げあがって、いったいどうしようというのでしょう。さびしい一軒屋のことですから、まわりは四ほうともあき地で、町中のように屋根から屋根を伝わって逃げる手段もありません。
それに、洋館ぜんたいが、おびただしい警官隊のために、とりまかれているのです。まったく袋のネズミも同然ではありませんか。屋根の上には飲み水や食料があるわけでもないでしょうから、いつまでもそんな場所にいることはできません。雨でも降れば、ふたりはあわれな、ぬれネズミです。
「どうしたんです。あいつは屋根へ逃げたんですか。」
入り口にいた五人の警官が、明智探偵のそばにかけよって、口々にたずねました。
「そうですよ。じつにばかなまねをしたものです。われわれはただ、この家をとりかこんで、じっと待っていてもいいのですよ。そのうちに、やつらはつかれきって、降参してしまうでしょう。もう捕縛したも同じことです。」
探偵は、賊をあわれむようにつぶやきました。
警官たちはすぐさま階下にかけおり、門の外に待機している警官隊に、このことをつたえました。いや、教えられるまでもなく、警官隊のほうでも、もうそれを気づいていました。
命令いっか、五十人あまりのおまわりさんが、表口裏口から門内になだれこみ、たちまち建物の四ほうに、アリものがさぬ円陣をはってしまいました。
指揮官中村捜査係長のさしずで、ふたりの警官が、どこかへ走りさったかと思うと、やがて、五分もたたないうちに、付近の消防署から、消防自動車が邸内にすべりこみ、機械じかけの非常ばしごがやみの大屋根めがけて、スルスルとのびあがりました。
そのはしごを、帽子のあごひもをかけ、靴をぬいで靴下ばかりになった警官が、つぎからつぎへとよじのぼり、懐中電燈をふり照らしながら、屋根の上の大捕り物がはじまりました。
二十面相とコックとは、手をつなぐようにして、屋根の頂上近くに立ちはだかっていました。大屋根にはいあがった警官たちは、それを遠まきにして、捕縄をにぎりしめ、ゆだんなくジリジリと賊にせまっていきます。
「ワハハハ……。」
やみの大空に、気ちがいのような高笑いが爆発しました。賊たちは、この危急のばあいに、何を思ったのか、声をそろえて笑いだしたのです。
「ワハハハ……、ゆかいゆかい、じつにすばらしい景色だなあ。ひとり、ふたり、三人、四人、五人、おお、登ってくる、登ってくる。おまわりさんで屋根がうずまりそうだ。
諸君、足もとに気をつけて、すべらないように用心したまえ。夜露でぬれているからね。ここからころがり落ちたら、命がないのだぜ。おお、そこへ登ってきたのは、中村警部君じゃないか。ご苦労さま。しばらくだったねえ。」
二十面相は傍若無人にわめきちらしています。
「いかにもわしは中村だ。きさまも、とうとう年貢をおさめるときがきたようだね。つまらない虚勢をはらないで、神妙にして、最後を清くするがいい。」
中村係長は、さとすようにどなりかえしました。
「ワハハ……、これはおかしい。最後だって? きみたちは、おれを袋のネズミとでも思っているのかい。もう逃げ場がないとでも思っているのかい。ところが、おれはけっしてつかまえられないんだぜ。おれの仕事はこれからだ。あんな宝石一つぐらいで、年貢をおさめてたまるものか。
おい、中村君、ひとつなぞをかけようか。おれたちがこの大屋根から、どうして逃げだすかというのだ。とけるかい。ハハハ……、二十面相は魔術師なんだぜ。こんどは、どんなすばらしい魔術を使うか、ひとつあててみたまえ。」
賊はあくまで傍若無人です。
二十面相は虚勢をはっているのでしょうか。いや、どうもそうではなさそうです。何かたしかに逃げだせるという確信を持っているらしくみえます。
しかし、四ほう八ぽうからとりかこまれた、この屋根の上を、どうしてのがれるつもりでしょう。いったい、そんなことができるのでしょうか。
悪魔の昇天
中村係長は怪盗が何をいおうと、そんな口あらそいには応じませんでした。賊はなんの意味もない、からいばりをしているのだと思ったからです。そこで、屋上の警官たちに、いよいよ最後の攻撃のさしずをしました。
それと同時に、十数名の警官が、口々に何かわめきながら、ふたりの賊をめがけて突進しました。屋根の上の警官隊の円陣が、みるみるちぢまっていくのです。
ふたりの賊は屋根の頂上の中央に、たがいに手をとりあって立ちすくんでいます。もうそれ以上どこへも動く場所がないのです。
「ソレッ!」
というかけ声とともに、中村係長が、ふたりに向かってとびかかっていきました。つづいてふたり、三人、四人、警官たちは賊をおしつぶそうとでもするように、四ほうからその場所にかけよりました。
ところが、これはどうしたというのでしょう。中村係長がパッととびつくと同時に、ふたりの賊の姿が、まるでかき消すようになくなってしまったのです。
それとは知らぬ警官たちは、暗さのために、つい思いちがいをして係長に組みついていくというありさまで、しばらくのあいだは、何がなんだかわけのわからぬ同士討ちがつづきました。
係長のおそろしいどなり声に、ハッとしてたちなおってみますと、警官たちは、今まで自分たちのおさえつけていたのが、賊ではなくて上官であったことを発見しました。まるでキツネにつままれたような感じです。
「あかりだ! あかりだ! だれか懐中電燈を……。」
係長が、もどかしげにさけびました。
しかし、懐中電燈を持っていた人たちは、賊にとびかかるとき、屋根の上に投げだしてしまったので、まっくらな中できゅうにそれをさがすわけにもいきません。ただうろたえるばかりです。
すると、ちょうどそのときでした。屋根の上がとつぜんパッと明るくなったのです。まるで真昼のような光線です。警官たちは、まぶしさに目もくらむばかりでした。
「ああ、探照燈だ!」
だれかが、さもうれしげにさけびました。
いかにもそれは、探照燈の光でした。
見れば洋館の門内に、一台のトラックがとまっていて、その上に小型の探照燈がすえつけられ、二名の作業服を着た技手が、その強い光を屋根の斜面に向けているのでした。
これは、警視庁そなえつけの移動探照燈なのです。
中村係長は、賊が、やみの屋上へ逃げあがったと知ると、すぐさま消防署へ使いを出しましたが、そのとき、もうひとりの警官には、電話で警視庁へ探照燈をもってくることを依頼させたのです。それが今つい、手早く探照燈を付近の電燈線にむすびつけ、屋根の上を照らしはじめたのです。
警官たちは、その真昼のような光の中で、キョロキョロと賊の姿をさがしもとめました。そして、人々の目が、屋根の上から、だんだん空のほうにうつっていったときです。
「アッ、あれだ! あれだ!」
ひとりの警官が、とんきょうな声をたてて、やみの大空を指さしました。
それと知ると、屋根の上の警官たちはもちろん、地上の数十名の警官たちも、あまりの意外さに、アーッと、おどろきのさけび声をあげました。
ああ、ごらんなさい。二十面相は空にのぼっていたのです。悪魔は昇天したのです。
やみの空を、ぐんぐんとのぼっていく、大きな大きな黒いゴムまりのようなものが見えました。軽気球です。ぜんたいをまっ黒にぬった軽気球です。広告気球の二倍もある、まっ黒な怪物です。
その軽気球の下にさがったかごの中に、小さくふたりの人の姿がみえます。黒い背広の二十面相と、白い上着のコックです。彼らは警官たちをあざわらうかのように、じっと下界をながめています。
人々はそれを見て、やっと二十面相のなぞをとくことができました。怪盗の最後の切り札はこの軽気球だったのです。ああ、なんという、とっぴな思いつきでしょう。ふつうの盗賊などには、まるで考えもおよばない、ずばぬけた芸当ではありませんか。
二十面相はまんいちのばあいのために、この黒い軽気球を用意しておいたのです。そして、今夜、明智探偵と会う少しまえに、その軽気球にガスを満たし、屋根の頂上につなぎとめておいたのです。ぜんたいがまっ黒にぬってあるものですから、こんなやみ夜には、通りがかりの人に発見される心配もなかったわけです。
いや、通りがかりの人どころではありません。屋根の上の警官たちにさえ、この気球は少しも気づかれませんでした。それというのも、さすがの警官たちも、まさか、軽気球とは思いもよらぬものですから、屋根ばかりを見ていて、その上のほうの空などは、ながめようともしなかったからです。また、たとえながめたとしても、やみの中の黒い気球がはっきり見わけられようとも考えられません。
ふたりの賊は警官たちに追いつめられたとき、とっさに軽気球のかごにとびのり、つなぎとめてあった綱を切断したのでしょう。それが暗やみの中の早わざだったものですから、とつぜんふたりの姿が消えうせたように感じられたのにちがいありません。
中村係長は、足ずりをしてくやしがりましたが、賊が昇天してしまっては、もう、どうすることもできないのです。五十余名の警官隊は、空をあおいで、口々に何かわけのわからぬさけび声をたてるばかりでした。
二十面相の黒軽気球は、下界のおどろきをあとにして、ゆうゆうと大空にのぼっていきます。地上の探照燈は、軽気球とともに高度を高めながら、暗やみの空に、大きな白いしまをえがいています。
その白いしまの中を、賊の軽気球は、刻一刻、その形を小さくしながら、高く高く、無限の空へと遠ざかっていきました。
かごの中のふたりの姿は、とっくに見えなくなっていました。やがて、かごそのものさえも、あるかなきかに小さくなり、しまいには、軽気球が、テニスのボールほどの黒い玉になって、探照燈の光の中をゆらめいていましたが、それさえも、いつしか、やみの大空にとけこむように、見えなくなってしまいました。
怪軽気球の最後
「二十面相、空中にのがる」との報が伝わると、警視庁や各警察署はいうまでもなく、各新聞社の報道陣は、たちまち色めきだちました。
時をうつさず、警視庁首脳部の緊急会議がひらかれ、その結果、探照燈によって賊のゆくえをつきとめることになりました。
まもなく東京付近の空には、十数条の探照燈の光線が入りみだれました。戦争のようなさわぎです。都内の高層建築物の屋上からも、いくつかの探照燈が照らしだされ、警視庁や新聞社のヘリコプターは、夜が明けるのを待ってとびだすために、エンジンをあたためて待機の姿勢をとりました。
しかし、これほどの大さわぎをしても、黒い軽気球は、どうしても見つけることができませんでした。その夜は、空いちめんに雲が低くたれていましたので、軽気球は雲の中へはいってしまったのかもしれません。けっきょく、せっかくの空中捜索も夜の明けるまでは、なんの効果もなく終わりました。
ところが、その翌朝のことです。埼玉県熊谷市付近の人々は、夜のうちに晴れわたった青空に、何かまっ黒なゴム風船のようなものがとんでいるのを発見して、たちまち大さわぎをはじめました。
その朝の新聞が、ゆうべの東京でのできごとを大きく書きたてていたものですから、人々はすぐ黒い風船の正体をさとることができたのです。
賊の軽気球は、夜中から吹きはじめた東南の風に送られて、夜のうちにここまでただよってきたものにちがいありません。
「二十面相だ。二十面相が空をとんでいるのだ。」
熊谷市内はもちろん、付近の町や村へも、そういうぶきみな声がひろがっていき、人々は家をからにして、街路へ走りいで、あるいは屋根の上にのぼって、青空にうかぶ黒い風船をながめました。
空には、かなり強い風が吹いているらしく、軽気球は、ひじょうな速度で、北西の方向にとんでいます。みるみるうちに村を越え、森を越え、熊谷市の上空を通過して、群馬県のほうへととびさっていくのです。
熊谷市の警察署員は、とびさる風船をながめて、地だんだをふんでくやしがりましたが、いくらくやしがっても、高射砲で射おとすこともできませんし、ヘリコプターをとばして機関銃で射撃するなどということは思いもよりません。ただ手をつかねて空を見まもるほかはないのでした。しかし、このことが電話によって東京に伝えられますと、新聞社は、待ってましたとばかりに、それぞれ所属のヘリコプターに出動を命じました。賊をとらえる望みはなくても、せめて怪軽気球を追跡して、その写真を撮影したり、記事をつくったりして、事件の経過を報道するためです。
つごう四台のヘリコプターが、相前後して東京の空を出発しました。そして、おそろしいスピードをだして、ちょうど熊谷市と高崎市のなかほどの空で、賊の軽気球に追いついてしまったのです。
それから、群馬県南部の大空に、ときならぬ空中ページェントがはじまりました。
四台のヘリコプターは、四ほうから賊の軽気球をつつむようにして、とんでいます。しかし、プロペラのない軽気球には、このかこみをやぶってのがれる力がありません。風のまにまに吹きながされているばかりです。
二十面相は、今や自由をうばわれたも同然です。とはいえ、ヘリコプターのほうでこれをきゅうにとらえる方法もありません。ただ、風船と同じ速度で飛行しながら、こんきよく追跡をつづけるほかはないのです。
このふしぎな空中ページェントの通過する町や村の人たちは、仕事も何もうちすてて、先をあらそって家の外にとびだし、空を見あげて口々に何かさけぶのでした。畑の農民もすきくわを投げだして空を見まもっています。小学校のガラス窓からは、男の子や女の子の顔が、鈴なりになっています。ちょうどその下を通りすぎる汽車の窓にも、空を見あげる人の顔ばかりです。
四台のヘリコプターは、ひし形の位置をとって、綱をはったように、黒い軽気球をまんなかにはさみながら、どこまでもどこまでもとんでいきます。
ときには一台のヘリコプターが、賊をおどかすように、スーッと軽気球の前をかすめたりします。二十面相は、どんな気持でいるのでしょう。この空の重囲におちいっても、まだ逃げおおせるつもりなのでしょうか。
やがて、高崎市の近くにさしかかったとき、とうとう二十面相の運のつきがきました。黒い軽気球はとつぜん浮力をうしなったように、みるみる下降をはじめたのです。
気球のどこかがやぶれて、ガスがもれているようすです。おお、ごらんなさい。今まではりきっていた黒い気球に、少しずつしわがふえていくではありませんか。
おそろしい光景でした。一分、二分、三分、しわは刻一刻とふえていき、気球はゴムまりをおしつぶしたような形にかわってしまいました。