その静けさをやぶったのは、五人のうちのだれかがはげしい勢いで動きだしたのと、それから、少女の洋服を着ている小林少年が、
「アッ、先生、二十面相が!」
とさけぶ、けたたましい声とでありました。
さすがの二十面相も、ほんものの門野支配人があらわれては、もう運のつきでした。いかにあらそってみても勝ちみがないとさとったのでしょう。彼はやにわに畳をあげたままになっていた床下へとびおりました。そして、そこにかがんで何かしているなと思ううち、とつじょとして、まったく信じがたい奇怪事がおこったのです。
ふしぎ、ふしぎ、アッと思うまに、にせ支配人の姿が、まるで土の中へでも、もぐりこんだように、消えうせてしまいました。
またしても、二十面相は魔法を使ったのでしょうか。彼はやっぱり、何かしら気体のようなものに化ける術をこころえていたのでしょうか。
逃走
「ハハハ……、何もおどろくことはありませんよ。二十面相は土の下へ逃げたのです。」
明智小五郎は、少しもさわがず、あっけにとられている人々を見まわして、説明しました。
「エッ、土の中へ? いったいそれはどういう意味です。」
大鳥氏がびっくりして聞きかえします。
「土の中に秘密のぬけ穴が掘ってあったのです。」
「エッ、ぬけ穴が?」
「そうですよ。二十面相は黄金塔をぬすみだすために、あらかじめ、ここの床下へぬけ穴を掘っておいて、支配人に化けて、さも忠義顔に、あなたにほんものの塔を、この床下へうずめることをすすめたのです。そして、部下のものがぬけ穴からしのんできて、ちょうどその穴の入り口にある塔を、なんのぞうさもなく持ちさったというわけですよ。賊の足あとが見あたらなかったのはあたりまえです。土の上を歩いたのではなく、土の中をはってきたのですからね。」
「しかし、わたしはあれを床下へうずめるのを見ておりましたが、べつにぬけ穴らしいものはなかったようですが。」
「それはふたがしてあったからですよ。ま、ま、ここへ来てよくごらんなさい。大きな鉄板で穴の上をふたして、土がかぶせてあったのです。今、二十面相はその鉄板をひらいて、穴の中にとびこんだのです。かき消すように見えなくなったのは、そのためですよ。」
大鳥氏も門野老人も小林少年も、急いでそばによって、床下をながめましたが、いかにもそこには一枚の鉄板が投げだしてあって、そのそばに古井戸のような大きな穴が、まっ黒な口をひらいていました。
「いったい、この穴はどこへつづいているのでしょう。」
大鳥氏があきれはてたようにたずねますと、明智はそくざに答えました。何から何まで知りぬいているのです。
「この裏手にあき家があるでしょう。ぬけ穴はそのあき家の床へぬけているのです。」
「では早く追いかけないと、逃げてしまうじゃありませんか。先生、早くそのあき家のほうへまわってください。」
大鳥氏は、もう気が気でないというちょうしです。
「ハハハ……。そこにぬかりがあるものですか。そのあき家のぬけ穴の出口のところには、中村捜査係長の部下が、五人も見はりをしていますよ。今ごろあいつをひっとらえている時分です。」
「ああ、そうでしたか。よくそこまで準備ができましたねえ、ありがとう、ありがとう、おかげで、私も今夜からまくらを高くして寝られるというものです。」
大鳥氏は安堵の胸をなでおろして、名探偵のぬけめのない処置を感謝するのでした。
しかし、二十面相は、明智の予想のとおり、はたして五名の警官に、逮捕されてしまったでしょうか。名にしおう魔術賊のことです。もしや、意外の悪知恵をはたらかせて、名探偵の計略の裏をかくようなことはないでしょうか。ああ、なんとなく心がかりではありませんか。
そのとき、やみのぬけ穴では、いったいどんなことがおこっていたのでしょう。
門野老人に化けた二十面相は、人々のゆだんを見すまして、パッとぬけ穴の中にとびこみますと、せまい穴の中をはうようにして、まるでもぐらのようなかっこうで、反対の出口へと急ぎました。
時計店の裏通りの、あき家というのは、奥座敷からは、せまい庭と塀とをへだててすぐのところにあるのですから、ぬけ穴の長さは二十メートルほどしかありません。二十面相は、まずそのあき家を借りたうえ、部下に命じて、人に知られぬように、大急ぎでぬけ穴を掘らせたのです。ですから、内がわを石がきやレンガできずくひまはなく、ちょうど旧式な炭坑のように、丸太のわくで、土の落ちるのをふせいであるという、みすぼらしいぬけ穴です。広さも、やっとひとり、はって歩けるほどなのです。
二十面相は、土まみれになって、そこをはっていきましたが、あき家の中の出口の下まで来て、ヒョイと外をのぞいたかと思うと、何かギョッとしたようすで首をひっこめてしまいました。
「ちくしょうめ、もう手がまわったか。」
彼は、いまいましそうに舌打ちして、しかたなく、またあともどりをはじめました。
穴の外の暗やみの中に、大ぜいの黒い人かげが見えたからです。しかも、それがみんな制服の警官らしく、制帽のひさしと拳銃のにぎりが、やみの中にもかすかにピカピカと光って見えたのです。
ああ、二十面相はとうとう、袋のネズミになってしまいました。いや、穴の中のもぐらになってしまいました。さすがの凶賊ももはや運のつきです。前に進めば五人の警官、うしろにもどれば、だれよりもこわい明智名探偵が待ちかまえているのです。進むこともしりぞくこともできません。といって、もぐらではない二十面相は、こんなジメジメした、まっくらな穴の中に、いつまでじっとしていられましょう。
しかし、なぜか怪盗はさしてこまったようすも見えません。彼はやみの中を、ぬけ穴の中ほどまで引きかえしますと、そこの壁のくぼみになった個所から、何かふろしき包みのようなものを、とりだしました。
「ヘヘン、どうだい。二十面相はどんなことがあったって、へこたれやしないぞ。敵が五と出せばこちらは十だ。十と出せば二十だ。ここにこんな用意がしてあろうとは、さすがの名探偵どのも、ごぞんじあるまいて。二十面相の字引きに不可能の文字なしっていうわけさ。フフフ……。」
彼は、そんなふてぶてしいひとりごとをいいながら、ふろしき包みらしいものをひらきました。すると、その中から、警官の制服制帽、警棒、靴などがあらわれました。
ああ、なんという用心ぶかさでしょう。まんいちのばあいのために、彼はぬけ穴の中へ、こんな変装用の衣装をかくしておいたのです。
「おっと、わすれちゃいけない。まず髪の毛の染料と顔のしわを落とさなくっちゃあ。」
二十面相は、じょうだんのようにつぶやきながら、懐中から銀色のケースをとりだし、その中の揮発油をしみこませた綿をちぎって頭と顔をていねいにふきとるのです。綿をちぎってはふき、ちぎってはふき、何度となくくりかえしているうちに、老人のしらが頭は、いつのまにか黒々とした頭髪となり、顔のしわもあとかたもなくとれて、若々しい青年にかわってしまいました。
「これでよしと、さあ、いよいよおまわりさんになるんだ。泥棒がおまわりさんに早がわりとござあい。」
二十面相は、きゅうくつな思いをして、やみの中の着がえをしながら、さもうれしくてたまらないというように、低く口笛さえ吹きはじめるのでした。
裏のあき家というのは、日本建ての商家でしたが、その奥座敷でも、ちょうど大鳥時計店の奥座敷と同じように、一枚の畳があげられ、床板がはずされ、その下に黒い土があらわれていました。
その土のまんなかに、ここには鉄板のふたなどなくて、ポッカリとぬけ穴の口が大きくひらいているのです。
ぬけ穴のまわりには、五名の制服警官が、あるいは床下に立ち、あるいは畳にこしかけ、あるいは座敷につっ立って、じっと見はりをつづけていました。むろん電燈はつけず、いざというときの用意には、中のふたりが懐中電燈をたずさえているのです。
「明智さんがもう少し早く、このぬけ穴を発見してくれたら、塔をぬすみだした手下のやつも、ひっとらえることができたんだがなあ。」
ひとりの警官が、ささやき声で、ざんねんそうにいいました。
「だが、二十面相さえとらえてしまえば、手下なんか一網打尽だよ。それにぬすまれた塔はにせものだっていうじゃないか。ともかく親玉さえつかまえてしまえば、こっちのもんだ。ああ、早く出てこないかなあ。」
べつの警官が、腕をさすりながら、待ちどおしそうに答えるのです。
たばこをすうのもえんりょして、じっと暗やみの中に待っている待ちどおしさ。まるで時間が止まってしまったような感じです。
「おい、何か音がしたようだぜ。」
「エッ、どこに?」
思わず懐中電燈をつかんで立ちあがったことが、いく度あったでしょう。
「なあんだ、ネズミじゃないか。」
当の二十面相は、いつまでたっても、姿をあらわさないのでした。
しかし、おお、こんどこどは、人間です。人間が穴の中からはいだしてくる物音です。サラサラと土のくずれる音、ハッハッという息づかい、いよいよ二十面相がやってきたのです。
五名の警官はいっせいに立ちあがって、身がまえました。二つの懐中電燈の丸い光が、左右からパッと穴の入り口を照らしました。
「おい、ぼくだよ、ぼくだよ。」
意外にも、穴をはいだしてきた人物が、したしそうな声をかけるではありませんか。
それは怪盗ではなくて、ひとりの若い警官だったのです。見知らぬ顔ですけれど、きっとこの区の警察署の警官なのでしょう。
「賊はどうしました。逃げたんですか。」
見はりをしていた警官のひとりが、ふしんそうにたずねました。
「いや、もうとらえました。明智さんの手引きで、ぼくの署のものが、しゅびよく逮捕したのです。あなたがたも早くあちらへ行ってください……。ぼくはこのぬけ穴の検分をおおせつかったのです。もしや同類がかくれてやしないかというのでね。しかし、だれもいなかったですよ。」
若い警官は、手錠をガチャガチャいわせながら、やっと穴をはいだして、五人の前に立ちました。
「なあんだ、もう逮捕したんだって?」
こちらは、せっかく意気ごんだのにむだになったと知って、がっかりしてしまいました。いや、がっかりしたというよりも、他署のものに手がらをうばわれて、すくなからず不平なのです。
「明智さんから、あなたがたに、もう見はりをしなくっていいから、早くこちらへ来てくださいということでしたよ……。ぼくはちょっと、署まで用事がありますから、これで失敬します。」
若い警官はテキパキといって、暗やみの中を、グングンあき家の表口のほうへ歩いていきました。
とりのこされた五人の警官は、なんとなくふゆかいな気持で、きゅうに動く気にもなれず、
「なあんだ、つまらない。」
などとつぶやきながら、ぐずぐずしていましたが、やがて、その中のひとりが、ハッと気づいたようにさけびました。
「おい、へんだぜ。あの男、ぬけ穴の調査を命じられたといいながら、報告もしないで、署に帰るなんて、少しつじつまがあわないじゃないか。」
「そういえば、おかしいね。あいつ穴の中をしらべるのに、懐中電燈もつけていなかったじゃないか。」
警官たちは、なんとも形容のできない、みょうな不安におそわれはじめました。
「おい、二十面相というやつは、なんにだって化けるんだぜ。いつかは国立博物館長にさえ化けたんだ。もしや今のは……。」
「エッ、なんだって、それじゃ、あいつが二十面相だっていうのか。」
「おい、追っかけてみよう。もしそうだったら、ぼくらは係長にあわす顔がないぜ。」
「よしッ、追っかけろ。ちくしょう逃がすものか。」
五人は、あわただしくあき家の入り口にかけだして、深夜の町を見わたしました。
「アッ、あすこを走っている。ためしによんでみようじゃないか。」
そこで一同声をそろえて、
「オーイ、オーイ。」とどなったのですが、それを聞きつけた相手は、ヒョイとふりかえったかと思うと、立ちどまるどころか、まえにも増した勢いで、いちもくさんに逃げだしたではありませんか。
「アッ、やっぱりそうだ。あいつだ。あいつが二十面相だっ。」
「ちくしょう、逃がすものか。」
五人はやにわに走りだしました。
もう一時をすぎた真夜中です。昼間はにぎやかな商店街も、廃墟のように静まりかえり、光といってはまばらに立ちならぶ街燈ばかり、人っ子ひとり通らないアスファルト道が、はるかにやみの中へ消えています。
その中を、逃げるひとりの警官、追いかける五人の警官、キツネにでもつままれたような奇妙な追跡がはじまりました。若い警官は、おそろしく足が早いのです。町かどに来るたび、あるいは右に、あるいは左に、めちゃくちゃに方角をかえて、追っ手をまこうとします。
そして、さしかかったのが、中央区内の、とある小公園の塀外でした。右がわは公園のコンクリート塀、左がわはすぐ川に面している、さびしい場所です。
二十面相は、そこまで走ってきますと、ヒョイと立ちどまって、うしろをふりかえりましたが、五人のおまわりさんはまだ町かどの向こうがわを走っているとみえて、追っ手らしい姿はどこにも見えません。
それをたしかめたうえ、二十面相は何を思ったのか、いきなりそこにうずくまって、地面に手をかけ、ウンとりきみますと、さしわたし五十センチほどの丸い鉄板が、ふたをひらくように持ちあがり、その下に大きな黒い穴があきました。水道のマンホールなのです。
東京の読者諸君は、水道の係りの人たちが、あの丸い鉄のふたをとって、地中へもぐりこんで、工事をしているのを、よくお見かけになるでしょう。今、二十面相は、その鉄のふたをひらいたのです。そして、ヒョイとそこへとびこむと、すばやく中から、ふたをもとのとおりにしめてしまいました。
鉄のふたがしまるのと、五人のおまわりさんが町かどをまがるのと、ほとんど同時でした。
「おや、へんだぞ。たしかにあいつはここをまがったんだが。」
おまわりさんたちは立ちどまって、死んだように静まりかえった夜ふけの町を見わたしました。
「向こうのまがりかどまでは百メートル以上もあるんだから、そんなに早く姿が見えなくなるはずはない。塀を乗りこして、公園の中へかくれたんじゃないか。」
「それとも、川へとびこんだのかもしれんぜ。」
そんなことをいいかわして、おまわりさんたちは、注意ぶかく左右を見まわしながら、急ぎ足に例のマンホールの上を通りすぎて、公園の入り口のほうへ遠ざかっていきました。
マンホールの鉄ぶたは、五人の靴でふまれるたびに、ガンガンとにぶい響きをたてました。おまわりさんたちは、そうして、二十面相の頭の上を通りながら、少しもそれと気づかなかったのです。東京の人は、マンホールなどには、なれっこになっていて、そのうえを歩いても、気のつかぬことが多いのです。
五人の警官がしょうぜんとして大鳥時計店にたちかえり、事のしだいを明智に報告したのは、それから二十分ほどのちのことでした。
それを聞いて、明智探偵は失望したでしょうか。警官たちの失策にかんしゃくをおこしたでしょうか。いやいや、けっしてそうではありませんでした。読者諸君、ご安心ください。われわれの名探偵はこれしきの失敗に勇気をうしなうような人物ではありません。彼のすばらしい脳髄に、まだまだとっておきの奥の手が、ちゃんと用意されていたのです。
「いや、ご苦労でした。ぼくもあいつがぬけ穴の中に変装の衣装をかくしていようとは思いもおよばなかった。しかし、諸君、失望なさることはありませんよ。こういうこともあろうかと、ぼくはちゃんと、もう一だん奥の用意がしてあるのです。
二十面相はしゅびよく逃げおおせたつもりでいても、まだぼくの張った網の中からのがれることができないのです。見ていてください。明朝までには、きっと諸君のかたきをとってあげますよ。
ほんとうをいえば、あいつが逃げてくれたのは思うつぼなのです。ぼくはゆかいでたまらないくらいです。なぜといって、そのぼくの奥の手というのは、じつにすばらしい手段なのですからね。諸君、見ていてください。二十面相がどんなに泣きつらをするか。ぼくの部下たちが、どんなみごとなはたらきをするか。
さあ、小林君、二十面相の最後の舞台へ、急いで出かけるとしよう。」
名探偵はいつにかわらぬほがらかな笑顔をうかべて、愛弟子小林君をまねきました。そして、大鳥時計店をたちいでますと、そこに待たせてあった自動車に乗って、夜霧の中を、いずこともなく走りさったのでありました。
さて、わたしたちは、もう一度、あの公園の前に立ちもどって、マンホールの中へかくれた二十面相が、どんなことをするか、それを見さだめなければなりません。
警官たちがたちさってしまいますと、そのあたりはまた、ヒッソリともとの静けさにかえりました。深夜の二時です。人通りなどあるはずはありません。
遠くのほうから、犬の鳴き声が聞こえていましたが、それもしばらくしてやんでしまうと、この世から音というものがなくなってしまったような静けさです。
黒く夜空にそびえている公園の林のこずえが、風もないのにガサガサと動いたかと思うと、夜の鳥が、あやしい声で、ゲ、ゲ、と二声鳴きました。
空は一面にくもって、星もないやみ夜です。光といっては、ところどころの電柱にとりつけてある街燈ばかり。その街燈の一つが二十面相のかくれたマンホールの黒い鉄板の上を、うすぼんやりと照らしています。
でも、マンホールのふたは、いつまでたっても動かないのです。ああ、二十面相は、あの暗やみの土の中で、いったい何をしているのでしょう。
長い長い二時間がすぎて、四時となりました。東の空がうっすらとしらみはじめています。遠い江東区の空から、徹夜作業の工場の汽笛が夜明けの近づいたことを知らせるように、もの悲しく、かすかにひびいてきました。
すると、街燈に照らされたマンホールのふたが、生きものででもあるかのように、少しずつ動きはじめました。やがて、鉄板はカタンとみぞをはずれて、ジリジリと地面を横へすべっていきます。そして、その下から、まっ黒な穴の口が、一センチ、二センチと、だんだん大きくひらいていくのです。
長いあいだかかって、鉄のふたはすっかりひらきました。すると、そこの丸い穴から、新しいネズミ色のソフト帽がニューッとあらわれてきたではありませんか。そして、そのつぎには、鼻の下に黒いひげをはやしたりっぱな青年紳士の顔、それからまっ白なソフト・カラー、はでなネクタイ、折り目の正しい上等の背広服と、胸のへんまで姿を見せて、その紳士は、注意ぶかくあたりを見まわしましたが、どこにも人かげのないのをたしかめると、パッと穴の中から地上にとびだし、すばやく鉄のふたをもとのとおりにしめて、そのまま何くわぬ顔で、歩きはじめました。
この青年紳士が怪盗二十面相の変装姿であったことは、申すまでもありません。ああ、なんという用心ぶかいやり口でしょう。二十面相は、何か仕事をもくろみますと、まんいちのばあいのために、いつもその付近のマンホールの中へ、変装用の衣装をかくしておくのです。そして、もし警官に追われるようなことがあれば、すばやく、そのマンホールの中へ身をかくし、まったくちがった顔と服装とになって、そしらぬ顔で逃げてしまうのです。
読者諸君のおうちの近所にも、マンホールがあることでしょうが、もしかすると、その中に、大きな黒いふろしき包みがかくしてあるかもしれませんよ。まんいちそんなふろしき包みが見つかるようなことがあれば、それは二十面相が、そのへんで何かおそろしいもくろみをしたしょうこなのです。
さて、二十面相の青年紳士は、急ぎ足に近くの大通りへ出ますと、そこの駐車場にならんでいたいちばん前の自動車に近づき、居ねむりをしている運転手を呼びおこしました。
そして運転手がドアをひらくのを待ちかねて、客席へとびこみ、早口に行く先をつげるのでした。
自動車は、ガランとした夜明けの町を、ひじょうな速力で走っていきます。銀座通りを出て、新橋をすぎ、環状線を品川へ、品川から京浜国道を、西に向かって一キロほど、とある枝道を北へはいってしばらく行きますと、だんだん人家がまばらになり、まがりくねった坂道の向こうに、林につつまれた小さな丘があって、その上にポツンと一軒の古風な洋館が、建っているのがながめられました。
「よし、ここでいい。」
二十面相の青年紳士は、自動車をとめさせて、料金をはらいますと、そのまま丘の上へとのぼっていき、木立ちをくぐって、洋館の玄関へはいってしまいました。
読者諸君、ここが二十面相のかくれがでした。賊はとうとう安全な巣くつへ逃げこんでしまったのです。では、明智探偵のせっかくの苦心も水のあわとなったのでしょうか。二十面相は、かんぜんに探偵の目をくらますことができたのでしょうか。
美術室の怪
二十面相がドアをあけて、玄関のホールに立ちますと、その物音を聞きつけて、ひとりの部下が顔を出しました。頭の毛をモジャモジャにのばして、顔いちめんに無精ひげのはえた、きたならしい洋服男です。
「お帰りなさい……。大成功ですね。」
部下の男はニヤニヤしながらいいました。何も知らないらしいのです。
「大成功? おやいや、何を寝ぼけているんだ。おれはマンホールの中で夜を明かしてきたんだぜ。近ごろにない大失敗さ。」
二十面相はおそろしいけんまくでどなりつけました。
「だって、黄金塔はちゃんと手にはいったじゃござんせんか。」
「黄金塔か、あんなもの、どっかへうっちゃっちまえ。おれたちは、にせものをつかまされたんだよ。またしても、明智のやつのおせっかいさ、それに、こにくらしいのは、あの小林という小僧だ。お手伝いに化けたりして、チビのくせに、いやに知恵のまわる野郎だ。」
部下の男は、首領のやつあたりにヘドモドしながら、
「いったいどうしたっていうんですか? あっしゃ、まるでわけがわかりませんが。」
とふしん顔です。
「まあ、すんだことはどうだっていい。それより、おれはねむくってしかたがないんだ。何もかもねむってからのこと。それから、新規まきなおしだ。あーあ……。」
二十面相は大きなあくびをして、フラフラと廊下をたどり、奥まった寝室へはいってしまいました。
部下の男は、二十面相を送って、寝室の外まで来ましたが、中からドアがしまっても、そこのうす暗い廊下に、長いあいだたたずんで、何か考えていました。
やや五分ほども、そうしてじっとしていますと、つかれきった二十面相は、服も着かえないでベッドにころがったものとみえ、もうかすかないびきの音が聞こえてきました。
それを聞きますと、ひげむじゃの部下は、なぜかニヤニヤと笑いながら、寝室の前を立ちさりましたが、ふたたび玄関に引きかえし、入り口のドアの外へ出て、向こうの林のしげみへ向かって、右手を二三度大きくふりうごかしました。なんだか、その林の中にかくれている人に、あいずでもしているようなかっこうです。
夜が明けたばかりの、五時少しまえです。林の中は、まだゆうべのやみが残っているように、うす暗いのです。こんなに朝早くから、いったい何者が、そこにかくれているというのでしょう。
ところが、部下の男が手をふったかと思うと、その林の下のしげった木の葉が、ガサガサと動いて、その間から、何かほの白い丸いものが、ぼんやりとあらわれました。うす暗いのでよくわかりませんが、どうやら人の顔のようにも思われます。
すると、建物の入口に立っている部下の男が、こんどは両手をまっすぐにのばして、左右にあげたりさげたり、鳥の羽ばたきのようなまねを、三度くりかえしました。
いよいよへんです。この男はたしかに何か秘密のあいずをしているのです。相手は何者でしょう。二十面相の敵か味方か、それさえもはっきりわかりません。
その奇妙なあいずが終わりますと、こんどはいっそうふしぎなことがおこりました。今まで林のしげみの中にぼんやり見えていた、人の顔のようなものが、スッとかくれたかと思うと、まるで大きなけだものでも走っているように、木の葉がはげしくざわめき、何かしら黒い影が、木立ちの間を向こうのほうへ、とぶようにかけおりていくのが見えました。
その黒い影はいったい何者だったのでしょう。そして、あのひげむじゃの部下はなんのあいずをしたのでしょう。
さて、お話は、それから七時間ほどたった、その日のお昼ごろのできごとにうつります。
そのころになって、寝室の二十面相はやっと目をさましました。じゅうぶんねむったものですから、ゆうべのつかれもすっかりとれて、いつもの快活な二十面相にもどっていました。まず浴室にはいって、さっぱりと顔を洗いますと、毎朝の習慣にしたがって、廊下の奥のかくし戸をひらいて、地底の美術室へと、おりていきました。
その洋館には広い地下室があって、そこが怪盗の秘密の美術陳列室になっているのです。読者諸君もごぞんじのとおり、二十面相は、世間の悪漢のように、お金をぬすんだり、人を殺したり、傷つけたりはしないのです。ただいろいろな美術品をぬすみあつめるのが念願なのです。
以前の巣くつは、国立博物館事件のとき、明智探偵のために発見され、ぬすみあつめた宝物を、すっかりうばいかえされてしまいましたが、それからのち、二十面相は、また、おびただしい美術品をぬすみためて、この新しいかくれがの地下室に、秘密の宝庫をこしらえていたのです。
そこは二十畳敷きぐらいの広さで、地下室とは思われぬほど、りっぱな飾りつけをした部屋です。四ほうの壁には、日本画の掛け軸や、大小さまざまの西洋画の額などが、ところせましとかけてありますし、その下にはガラスばりの台がズッとならんでいて、目もまばゆい貴金属、宝石類の小美術品が陳列してあります。また、壁のところどころには、古い時代の木彫りの仏像が、つごう十一体、れんげ台の上に安置されています。それらの美術品は、どれを見ても、みな由緒のある品ばかり、私設博物館といってもいいほどのりっぱさです。
地下室のことですから、窓というものがなく、わずかに、天井のすみに、厚いガラス張りの天窓のようなものがあり、そこからにぶい光がさしこんでいるばかりですから、美術室は昼間でも、夕方のようにうす暗いのです。
部屋の天井には、りっぱな装飾電燈がさがっていますけれど、二十面相は、新しい宝物を手に入れたときででもなければ、めったに電燈をつけません。大寺院のお堂の中のような、おもおもしいうす暗さが大すきだからです。そのうす暗い中でながめますと、古い絵や仏像がいっそう古めかしく尊く感じられるからです。
二十面相は、いま、その美術室のまんなかに立って、ぬすみためた宝物を、さも楽しそうに見まわしていました。
「フフン、明智先生、おれの裏をかいたと思って、得意になっているが、黄金塔がなんだ、あんなもの一つぐらいしくじったって、おれはこんなに宝物を集めているんだ。さすがの明智先生も、ここにこんなりっぱな美術室があろうとは、ごぞんじあるまいて、フフフ……。」
怪盗はひとりごとをいって、さもゆかいらしく笑うのでした。
二十面相は部屋のすみの一つの仏像の前に近づきました。
「じつによくできているなあ。なにしろ国宝だからね。まるで生きているようだ。」
そんなことをつぶやきながら、仏像の肩のへんをなでまわしていましたが、なにを思ったのか、ふと、その手をとめて、びっくりしたように、しげしげと仏像の顔をのぞきこみました。
その仏像はいやになまあたたかかったからです。あたたかいばかりでなく、からだがドキンドキンと脈うっていたからです。まるで息でもしているように、胸のへんがふくれたりしぼんだりしていたからです。
いくら生きているような仏像だって、息をしたり、脈をうったりするはずはありません。なんだかへんです。お化けみたいな感じです。
二十面相は、ふしぎそうな顔をして、その仏像の胸をたたいてみました。ところが、いつものようにコツコツという音がしないで、なんだかやわらかい手ごたえです。
たちまち、二十面相の頭に、サッと、ある考えがひらめきました。
「やいっ、きさま、だれだっ!」
彼はいきなり、おそろしい声で、仏像をどなりつけたのです。
すると、ああ、なんということでしょう。どなりつけられた仏像が、ムクムクと動きだしました。そして、まっ黒になったやぶれ衣の下から、ニューッとピストルの筒口があらわれ、ピッタリと怪盗の胸にねらいがさだめられたではありませんか。
「きさま、小林の小僧だなッ。」
二十面相は、すぐさまそれとさとりました。この手は以前に一度経験していたからです。
しかし、仏像は何も答えませんでした。無言のまま、左手をあげて、二十面相のうしろを指さしました。
そのようすがひどくぶきみだったものですから、怪盗は思わずヒョイと、うしろをふりむきましたが、すると、これはどうしたというのでしょう。部屋中の仏像がみな、れんげ台の上で、むくむくと動きだしたではありませんか。そして、それらの仏像の右手には、どれもこれも、ピストルが光っているのです。十一体の仏像が、四ほうから、怪盗めがけて、ピストルのねらいをさだめているのです。
さすがの二十面相も、あまりのことに、アッと立ちすくんだまま、キョロキョロとあたりを見まわすばかりです。
「夢をみているんじゃないかしら。それともおれは気でもちがったのかしら。十一体の仏像が十一体とも、生きて動きだして、ピストルをつきつけるなんて、そんなばかなことが、ほんとうにおこるものかしら。」
二十面相は、頭の中がこんぐらかって、何がなんだかわけがわからなくなってしまいました。フラフラと目まいがして、今にもたおれそうな気持です。
「おや、どうかなすったのですかい。顔色がひどく悪いじゃございませんか。」
とつぜん声がして、けさのひげむじゃの部下の男が、美術室へはいってきました。
「ウン、少し、目まいがするんだ。おまえ、この仏像をよくしらべてみてくれ、おれにはなんだかみょうなものに見えるんだが……。」
二十面相は頭をかかえて、弱音をはきました。
すると部下の男は、いきなり笑いだして、
「ハハハ……、仏さまが生きて動きだしたというんでしょう。天罰ですぜ。二十面相に天罰がくだったんですぜ。」
と、みょうなことをいいだしました。
「エッ、なんだって?」
「天罰だといっているんですよ。とうとう二十面相の運のつきが来たといっているんですよ。」
二十面相は、あっけにとられて相手の顔を見つめました。木彫りの仏像が動きだしたばかりでなく、信じきっていた部下までが、気でもちがったように、おそろしいことをいいだしたのです。いよいよ、何がなんだかわからなくなってしまいました。
「ハハハ……、おいおい、二十面相ともあろうものが、みっともないじゃないか、こんなことでびっくりするなんて。ハハハ……、まるでハトが豆鉄砲をくらったような顔だぜ。」
部下の男の声が、すっかりかわってしまいました。今までのしわがれ声が、たちまちよく通る美しい声にかわってしまったのです。
二十面相は、どうやらこの声に聞きおぼえがありました。ああ、ひょっとしたら、あいつじゃないかしら。きっとあいつだ。ちくしょうめ、あいつにちがいない。しかし、彼はおそろしくて、その名を口にだすこともできないのでした。
「ハハハ……、まだわからないかね。ぼくだよ。ぼくだよ。」
部下の男は、ほがらかに笑いながら、顔いちめんのつけひげを、皮をはぐようにめくりとりました。
すると、その下から、にこやかな青年紳士の顔があらわれてきたのです。
「アッ、きさま、明智小五郎!」
「そうだよ、ぼくも変装はまずくはないようだね。本家本元のきみをごまかすことができたんだからね。もっとも、けさは夜が明けたばかりで、まだうす暗かったし、この地下室も、ひどく暗いのだから、そんなにいばれたわけでもないがね。」
ああ、それは意外にもわれらの明智探偵だったのです。
二十面相は、一時はギョッと顔色をかえましたが、相手が化けものでもなんでもなく、明智探偵とわかりますと、さすがは怪人、やがてだんだん落ちつきをとりもどしました。
「で、おれをどうしようというのだね。探偵さん。」
彼はにくにくしく言いながら、傍若無人に地下室の出口のほうへ歩いていこうとするのです。
「とらえようというのさ。」
探偵は二十面相の胸を、グイグイとおしもどしました。
「で、いやだといえば? 仏像どもがピストルをうつというしかけかね。フフフ……、おどかしっこなしだぜ。」
怪盗は、たかをくくって、なおも明智をおしのけようとします。
「いやだといえばこうするのさ!」
肉弾と肉弾とがはげしい勢いでもつれあったかと思うと、おそろしい音をたてて、二十面相のからだが床の上に投げたおされていました。背負い投げがみごとにきまったのです。
二十面相は投げたおされたまま、あっけにとられたように、キョトンとしていました。明智探偵にこれほどの腕力があろうとは、今の今まで、夢にも知らなかったからです。
二十面相は少し柔道のこころえがあるだけに、段ちがいの相手の力量がはっきりわかるのです。そして、これではいくら手むかいしてみても、とてもかなうはずはないとさとりました。
「こんどこそはおれの負けだね。フフフ……、二十面相もみじめな最期をとげたもんさねえ。」
彼は、にが笑いをうかべながら、しぶしぶ立ちあがると、「さあ、どうでもしろ。」というように、明智探偵をにらみつけました。
大爆発
二十面相は、十一体の仏像のピストルにかこまれ、明智探偵の監視をうけながら、もうあきらめはてたように美術室の中を、フラフラと歩きまわりました。
「ああ、せっかくの苦心も水のあわか。おれは何よりも、この美術品をうしなうのがつらいよ。明智君、武士のなさけだ。せめて名ごりをおしむあいだ、外の警官を呼ぶのを待ってくれたまえね。」
二十面相は、早くもそれをさとっていました。いかにも彼の推察したとおり、この洋館の外は、数十人の警官隊によって、アリのはいでるすきもなく、ヒシヒシと四ほうからとりかこまれていたのです。