中村係長は少年名探偵の手をとって、感謝にたえぬもののように、にぎりしめるのでした。
かくして、たたかいは、小林少年の勝利に終わりました。仏像は、最初からわたさなくてすんだのですし、ダイヤモンドは六個とも、ちゃんとカバンの中におさまっています。勝利も勝利、まったく申しぶんのない勝利でした。賊は、あれほどの苦心にもかかわらず、一物をも得ることができなかったばかりか、せっかく監禁した小林少年は救いだされ、彼自身は、とうとう、とらわれの身となってしまったのですから。
「ぼく、なんだかうそみたいな気がします。二十面相に勝ったなんて。」
小林君は、興奮に青ざめた顔で、何か信じがたいことのようにいうのでした。
しかし、ここに一つ、賊が逮捕されたうれしさのあまり、少年探偵がすっかり忘れていたことがらがあります。それは二十面相のやとっていたコックのゆくえです。彼は、いったいどこへ雲がくれしてしまったのでしょう。あれほどの家さがしに、まったく姿を見せなかったというのは、じつに、ふしぎではありませんか。
逃げるひまがあったとは思われません。もしコックに逃げるよゆうがあれば、二十面相も逃げているはずです。では、彼はまだ屋内のどこかに身をひそめているのでしょうか。それはまったく不可能なことです。大ぜいの警官隊のげんじゅうな捜索に、そんな手ぬかりがあったとは考えられないからです。
読者諸君、ひとつ本をおいて、考えてみてください。このコックの異様なゆくえ不明には、そもそもどんな意味がかくされているのかを。
おそろしき挑戦状
戸山ヶ原の廃屋の捕り物があってから二時間ほどのち、警視庁の陰気な調べ室で、怪盗二十面相の取り調べがおこなわれました。なんの飾りもない、うす暗い部屋に机が一脚、そこに中村捜査係長と老人に変装したままの怪盗と、ふたりきりのさし向かいです。
賊はうしろ手にいましめられたまま、傍若無人に立ちはだかっています。さいぜんから、おしのようにだまりこくって、一言も、ものをいわないのです。
「ひとつ、きみの素顔を見せてもらおうか。」
係長は、賊のそばへよると、いきなり白髪のかつらに手をかけて、スッポリと引きぬきました。すると、その下から黒々とした頭があらわれました。つぎには、顔いっぱいの、しらがのつけひげを、むしりとりました。そして、いよいよ賊の素顔がむきだしになったのです。
「おやおや、きみは、あんがいぶおとこだねえ。」
係長がそういって、みょうな顔をしたのももっともでした。賊は、せまいひたい、クシャクシャと不ぞろいな短いまゆ、その下にギョロッと光っているどんぐりまなこ、ひしゃげた鼻、しまりのない厚ぼったいくちびる、まったく利口そうなところの感じられない、野蛮人のような、異様な相好でした。
先にもいうとおり、この賊はいくつとなくちがった顔を持っていて、ときに応じて老人にも、青年にも、女にさえも化けるという怪物ですから、世間一般にはもちろん、警察の係官たちにも、そのほんとうの容ぼうは少しもわかっていなかったのです。
それにしても、これはまあ、なんてみにくい顔をしているのだろう。もしかしたら、この野蛮人みたいな顔が、やっぱり変装なのかもしれない。
中村係長は、なんともたとえられないぶきみなものを感じました。係長は、じっと賊の顔をにらみつけて、思わず、声を大きくしないではいられませんでした。
「おい、これがおまえのほんとうの顔なのか。」
じつにへんてこな質問です。しかし、そういうばかばかしい質問をしないではいられぬ気持でした。
すると怪盗は、どこまでもおしだまったまま、しまりのないくちびるを、いっそうしまりなくして、ニヤニヤと笑いだしたのです。
それを見ると、中村係長は、なぜかゾッとしました。目の前に、何か想像もおよばない奇怪なことがおこりはじめているような気がしたのです。
係長は、その恐怖をかくすように、いっそう相手に近づくと、いきなり両手をあげて、賊の顔をいじりはじめました。まゆ毛をひっぱってみたり、鼻をおさえてみたり、ほおをつねってみたり、あめざいくでもおもちゃにしているようです。
ところが、そうしていくらしらべてみても、賊は変装しているようすはありません。かつてあの美青年の羽柴壮一君になりすました賊が、そのじつ、こんな化け物みたいなみにくい顔をしていたとは、じつに意外というほかはありません。
「エヘヘヘ……、くすぐってえや、よしてくんな、くすぐってえや。」
賊がやっと声をたてました。しかし、なんというだらしのないことばでしょう。彼は口のきき方までいつわって、あくまで警察をばかにしようというのでしょうか。それとも、もしかしたら……。
係長はギョッとして、もう一度賊をにらみつけました。頭の中に、ある、とほうもない考えがひらめいたのです。ああ、そんなことがありうるでしょうか。あまりにばかばかしい空想です。まったく不可能なことです。でも、係長は、それをたしかめてみないではいられませんでした。
「きみはだれだ。きみは、いったいぜんたい何者なんだ。」
またしても、へんてこな質問です。
すると、賊はその声に応じて、まちかまえていたように答えました。
「あたしは、木下虎吉っていうもんです。職業はコックです。」
「だまれ! そんなばかみたいな口をきいて、ごまかそうとしたって、だめだぞ。ほんとうのことをいえ。二十面相といえば世間に聞こえた大盗賊じゃないか。ひきょうなまねをするなっ。」
どなりつけられて、ひるむかと思いのほか、いったいどうしたというのでしょう。賊は、いきなりゲラゲラと笑いだしたではありませんか。
「ヘエー、二十面相ですって、このあたしがですかい。ハハハ……、とんだことになるものですね。二十面相がこんなきたねえ男だと思っているんですかい。警部さんも目がないねえ。いいかげんにわかりそうなもんじゃありませんか。」
中村係長は、それを聞くと、ハッと顔色をかえないでいられませんでした。
「だまれッ、でたらめもいいかげんにしろ。そんなばかなことがあるものか。きさまが二十面相だということは、小林少年がちゃんと証明しているじゃないか。」
「ワハハハ……、それがまちがっているんだから、お笑いぐさでさあ。あたしはね、べつになんにも悪いことをしたおぼえはねえ、ただのコックですよ。二十面相だかなんだか知らないが、十日ばかりまえ、あの家へやとわれたコックの虎吉ってもんですよ。なんなら、コックの親方のほうをしらべてくださりゃ、すぐわかることです。」
「その、なんでもないコックが、どうしてこんな老人の変装をしているんだ。」
「それがね、いきなりおさえつけられて、着物を着かえさせられ、かつらをかぶせられてしまったんでさあ。あたしも、じつは、よくわけがわからないんだが、おまわりさんが、ふみこんできなすったときに、主人が、あたしの手をとって、屋根裏部屋へかけあがったのですよ。
あの部屋にはかくし戸棚があってね、そこにいろんな変装の衣装が入れてあるんです。主人はその中から、おまわりさんの洋服や、帽子などをとりだして、手早く身につけると、今まで着ていたおじいさんの着物を、あたしに着せて、いきなり、『賊をつかまえた。』とどなりながら、身動きもできないようにおさえつけてしまったんです。今から考えてみると、つまり警部さんの部下のおまわりさんが、二十面相を見つけだして、いきなりとびかかったという、お芝居をやってみせたわけですね。屋根裏部屋はうす暗いですからね。あのさわぎのさいちゅう、顔なんかわかりっこありませんや。あたしは、どうすることもできなかったんですよ。なにしろ、主人ときたら、えらいちからですからねえ。」
中村係長は、青ざめてこわばった顔で、無言のまま、はげしく卓上のベルをおしました。そして、警部が顔を出すと、けさ戸山ヶ原の廃屋を包囲した警官のうち、表口、裏口の見はり番をつとめた四人の警官に、すぐ来るようにと伝えさせたのです。
やがて、はいってきた四人の警官を、係長は、こわい顔でにらみつけました。
「こいつを逮捕していたとき、あの家から出ていったものはなかったかね。そいつは警官の服装をしていたかもしれないのだ。だれか見かけなかったかね。」
その問いに応じて、ひとりの警官が答えました。
「警官ならばひとり出ていきましたよ。賊がつかまったから早く二階へ行けと、どなっておいて、ぼくらがあわてて階段のほうへかけだすのと反対に、その男は外へ走っていきました。」
「なぜ、それを今までだまっているんだ。だいいち、きみはその男の顔を見なかったのかね。いくら警官の制服を着ていたからって、顔を見れば、にせ者かどうかすぐわかるはずじゃないか。」
係長のひたいには、静脈がおそろしくふくれあがっています。
「それが、顔を見るひまがなかったんです。風のように走ってきて、風のようにとびだしていったものですから。しかし、ぼくはちょっとふしんに思ったので、きみはどこへ行くんだ、と声をかけました。するとその男は、電話だよ、係長のいいつけで電話をかけに行くんだよ、とさけびながら、走っていってしまいました。
電話ならば、これまで例がないこともないので、ぼくはそれ以上うたがいませんでした。それに、賊が、つかまってしまったのですから、かけだしていった警官のことなんかわすれてしまって、ついご報告しなかったのですよ。」
聞いてみれば、むりのない話でした。むりがないだけに、賊の計画が、じつに機敏に、しかも用意周到におこなわれたことを、おどろかないではいられませんでした。
もう、うたがうところはありません。ここに立っている野蛮人みたいな、みにくい顔の男は、怪盗でもなんでもなかったのです。つまらないひとりのコックにすぎなかったのです。そのつまらないコックをつかまえるために十数名の警官が、あの大さわぎを演じたのかと思うと、係長も四人の警官も、あまりのことに、ただ、ぼうぜんと顔を見あわせるほかはありませんでした。
「それから、警部さん、主人があなたにおわたししてくれといって、こんなものを書いていったんですが。」
コックの虎吉が、十徳の胸をひらいて、もみくちゃになった一枚の紙きれを取りだし、係長の前にさしだしました。
中村係長は、ひったくるようにそれを受けとると、しわをのばして、すばやく読みくだしましたが、読みながら、係長の顔は、憤怒のあまり、紫色にかわったかと見えました。
そこには、つぎのようなばかにしきった文言が書きつけてあったのです。
小林君によろしく伝えてくれたまえ。あれはじつにえらい子どもだ。ぼくはかわいくてしかたがないほどに思っている。だが、いくらかわいい小林君のためだって、ぼくの一身を犠牲にすることはできない。勝利によっているあの子どもには気のどくだが、少々実世間の教訓をあたえてやったわけだ。子どものやせ腕でこの二十面相に敵対することは、もうあきらめたがよいと伝えてくれたまえ。これにこりないと、とんだことになるぞと、伝えてくれたまえ。ついでながら、警官諸公に、少しばかりぼくの計画をもらしておく。羽柴氏は少し気のどくになった。もうこれ以上なやますことはしない。じつをいうと、ぼくはあんな貧弱な美術室に、いつまでも執着しているわけにはいかないのだ。ぼくはいそがしい。じつは今、もっと大きなものに手をそめかけているのだ。それがどのような大事業であるかは、近日、諸君の耳にもたっすることだろう。では、そのうちまたゆっくりお目にかかろう。
二十面相より
中村善四郎君
読者諸君、かくして二十面相と小林少年のたたかいは、ざんねんながら、けっきょく、怪盗の勝利に終わりました。しかも二十面相は、羽柴家の宝庫を貧弱とあざけり、大事業に手をそめているといばっています。彼の大事業とはいったい、何を意味するのでしょうか。こんどこそ、もう小林少年などの手におえないかもしれません。待たれるのは、明智小五郎の帰国です。それもあまり遠いことではありますまい。
ああ、名探偵明智小五郎と怪人二十面相の対立、知恵と知恵との一騎うち、その日が待ちどおしいではありませんか。
美術城
伊豆半島の修善寺温泉から四キロほど南、下田街道にそった山の中に、谷口村というごくさびしい村があります。その村はずれの森の中に、みょうなお城のようないかめしいやしきが建っているのです。
まわりには高い土塀をきずき、土塀の上には、ずっと先のするどくとがった鉄棒を、まるで針の山みたいに植えつけ、土塀の内がわには、四メートル幅ほどのみぞが、ぐるっととりまいていて、青々とした水が流れています。深さも背がたたぬほど深いのです。これはみな人をよせつけぬための用心です。たとい針の山の土塀を乗りこえても、その中に、とてもとびこすことのできないお堀が、堀りめぐらしてあるというわけです。
そして、そのまんなかには、天守閣こそありませんが、全体に厚い白壁造りの、窓の小さい、まるで土蔵をいくつもよせあつめたような、大きな建物が建っています。
その付近の人たちは、この建物を「日下部のお城」と呼んでいますが、むろんほんとうのお城ではありません。こんな小さな村にお城などあるはずはないのです。
では、このばかばかしく用心堅固な建物は、いったい何者の住まいでしょう。警察のなかった戦国時代ならば知らぬこと、今の世に、どんなお金持だって、これほど用心ぶかい邸宅に住んでいるものはありますまい。
「あすこには、いったいどういう人が住んでいるのですか。」
旅のものなどがたずねますと、村人はきまったように、こんなふうに答えます。
「あれですかい。ありゃ、日下部の気ちがい旦那のお城だよ。宝物をぬすまれるのがこわいといってね、村ともつきあいをしねえかわり者ですよ。」
日下部家は、先祖代々、この地方の大地主だったのですが、今の左門氏の代になって、広大な地所もすっかり人手にわたってしまって、残るのはお城のような邸宅と、その中に所蔵されているおびただしい古名画ばかりになってしまいました。
左門老人は気ちがいのような美術収集家だったのです。美術といってもおもに古代の名画で、雪舟とか探幽とか、小学校の本にさえ名の出ている、古来の大名人の作は、ほとんどもれなく集まっているといってもいいほどでした。何百幅という絵の大部分が、国宝にもなるべき傑作ばかり、価格にしたら数十億円にもなろうといううわさでした。
これで、日下部家のやしきが、お城のように用心堅固にできているわけがおわかりでしょう。左門老人は、それらの名画を命よりもだいじがっていたのです。もしや泥棒にぬすまれはしないかと、そればかりが、寝てもさめてもわすれられない心配でした。
堀を掘っても、塀の上に針を植えつけても、まだ安心ができません。しまいには、訪問者の顔を見れば、絵をぬすみに来たのではないかとうたがいだして、正直な村の人たちとも、交際をしないようになってしまいました。
そして、左門老人は、年中お城の中にとじこもって、集めた名画をながめながら、ほとんど外出もしないのです。美術にねっちゅうするあまり、お嫁さんももらわず、したがって子どももなく、ただ名画の番人に生まれてきたような生活が、ずっとつづいて、いつしか六十の坂をこしてしまったのでした。
つまり、老人は美術のお城の、奇妙な城主というわけでした。
きょうも老人は、白壁の土蔵のような建物の、奥まった一室で、古今の名画にとりかこまれて、じっと夢みるようにすわっていました。
戸外にはあたたかい日光がうらうらとかがやいているのですが、用心のために鉄ごうしをはめた小さい窓ばかりの室内は、まるで牢獄のようにつめたくて、うす暗いのです。
「旦那さま、あけておくんなせえ。お手紙がまいりました。」
部屋の外に年とった下男の声がしました。広いやしきに召使いといっては、このじいやとその女房のふたりきりなのです。
「手紙? めずらしいな。ここへ持ってきなさい。」
老人が返事をしますと、重い板戸がガラガラとあいて、主人と同じようにしわくちゃのじいやが、一通の手紙を手にしてはいってきました。
左門老人は、それを受けとって裏を見ましたが、みょうなことに差出人の名まえがありません。
「だれからだろう。見なれぬ手紙だが……。」
あて名はたしかに日下部左門様となっているので、ともかく封を切って、読みくだしてみました。
「おや、旦那さま、どうしただね。何か心配なことが書いてありますだかね。」
じいやが思わず、とんきょうなさけび声をたてました。それほど、左門老人のようすがかわったのです。ひげのないしわくちゃの顔が、しなびたように色をうしなって、歯のぬけたくちびるがブルブルふるえ、老眼鏡の中で、小さな目が不安らしく光っているのです。
「いや、な、なんでもない。おまえにはわからんことだ。あっちへ行っていなさい。」
ふるえ声でしかりつけるようにいって、じいやを追いかえしましたが、なんでもないどころか、老人は気をうしなってたおれなかったのが、ふしぎなくらいです。
その手紙には、じつに、つぎのようなおそろしいことばが、したためてあったのですから。
紹介者もなく、とつぜんの申し入れをおゆるしください。しかし、紹介者などなくても、小生が何者であるかは、新聞紙上でよくご承知のことと思います。
用件をかんたんに申しますと、小生は貴家ご秘蔵の古画を、一幅も残さずちょうだいする決心をしたのです。きたる十一月十五日夜、かならず参上いたします。
とつぜん推参して、ご老体をおどろかしてはお気のどくと存じ、あらかじめご通知します。
二十面相
日下部左門殿
ああ、怪盗二十面相は、とうとう、この伊豆の山中の美術収集狂に、目をつけたのでした。彼が警官に変装して、戸山ヶ原のかくれがを逃亡してから、ほとんど一ヵ月になります。そのあいだ、怪盗がどこで何をしていたか、だれも知るものはありません。おそらく新しいかくれがをつくり、手下の者たちを集めて、第二、第三のおそろしい陰謀をたくらんでいたのでしょう。そして、まず白羽の矢をたてられたのが、意外な山奥の、日下部家の美術城でした。
「十一月十五日の夜といえば、今夜だ。ああ、わしはどうすればよいのじゃ。二十面相にねらわれたからには、もう、わしの宝物はなくなったも同然だ。あいつは、警視庁の力でも、どうすることもできなかったおそろしい盗賊じゃないか。こんな片いなかの警察の手におえるものではない。
ああ、わしはもう破滅だ。この宝物をとられてしまうくらいなら、いっそ死んだほうがましじゃ。」
左門老人は、いきなり立ちあがって、じっとしていられぬように、部屋の中をグルグル歩きはじめました。
「ああ、運のつきじゃ。もうのがれるすべはない。」
いつのまにか、老人の青ざめたしわくちゃな顔が、涙にぬれていました。
「おや、あれはなんだったかな……ああ、わしは思いだしたぞ。わしは思いだしたぞ。どうして、今まで、そこへ気がつかなかったのだろう。
……神さまは、まだこのわしをお見すてなさらないのじゃ。あの人さえいてくれたら、わしは助かるかもしれないぞ。」
何を思いついたのか、老人の顔には、にわかに生気がみなぎってきました。
「おい、作蔵、作蔵はいないか。」
老人は部屋の外へ出て、パンパンと手をたたきながら、しきりと、じいやを呼びたてました。
ただならぬ主人の声に、じいやがかけつけてきますと、
「早く、『伊豆日報』を持ってきてくれ。たしかおとといの新聞だったと思うが、なんでもいいから三―四日ぶんまとめて持ってきてくれ。早くだ、早くだぞ。」
と、おそろしいけんまくで命じました。作蔵が、あわてふためいて、その『伊豆日報』という地方新聞のたばを持ってきますと、老人は取る手ももどかしく、一枚一枚と社会面を見ていきましたが、やっぱりおとといの十三日の消息欄に、つぎのような記事が出ていました。
明智小五郎氏来修
民間探偵の第一人者明智小五郎氏は、ながらく、外国に出張中であったが、このほど使命をはたして帰京、旅のつかれを休めるために、本日修繕寺温泉富士屋旅館に投宿、四―五日滞在の予定である。
「これだ。これだ。二十面相に敵対できる人物は、この明智探偵のほかにはない。羽柴家の盗難事件では、助手の小林とかいう子どもでさえ、あれほどのはたらきをしたんだ。その先生明智探偵ならば、きっとわしの破滅を救ってくれるにちがいはないて。どんなことがあっても、この名探偵をひっぱってこなくてはならん。」
老人は、そんなひとりごとをつぶやきながら、作蔵じいやの女房を呼んで着物をきかえますと、宝物部屋のがんじょうな板戸をピッタリしめ、外からかぎをかけ、ふたりの召使いに、その前で見はり番をしているように、かたくいいつけて、ソソクサとやしきを出かけました。
いうまでもなく、行く先は、近くの修繕寺温泉富士屋旅館です。そこへ行って、明智探偵に面会し、宝物の保護をたのもうというわけです。
ああ、待ちに待った名探偵明智小五郎が、とうとう帰ってきたのです。しかも、時も時、所も所、まるで申しあわせでもしたように、ちょうど、二十面相がおそおうという、日下部氏の美術城のすぐ近くに、入湯に来ていようとは、左門老人にとっては、じつに、ねがってもないしあわせといわねばなりません。
名探偵明智小五郎
ネズミ色のトンビに身をつつんだ、小がらの左門老人が、長い坂道をチョコチョコと走らんばかりにして、富士屋旅館についたのは、もう午後一時ごろでした。
「明智小五郎先生は?」
とたずねますと、裏の谷川へ魚釣りに出かけられましたとの答え。そこで、女中を案内にたのんで、またテクテクと、谷川へおりていかなければなりませんでした。
クマザサなどのしげった、あぶない道を通って、深い谷間におりると、美しい水がせせらぎの音をたてて流れていました。
流れのところどころに、飛び石のように、大きな岩が頭を出しています。そのいちばん大きな平らな岩の上に、どてら姿のひとりの男が、背をまるくして、たれた釣りざおの先をじっと見つめています。
「あの方が、明智先生でございます。」
女中が先にたって、岩の上をピョイピョイととびながら、その男のそばへ近づいていきました。
「先生、あの、このお方が、先生にお目にかかりたいといって、わざわざ遠方からおいでなさいましたのですが。」
その声に、どてら姿の男は、うるさそうにこちらをふりむいて、
「大きな声をしちゃいけない。さかなが逃げてしまうじゃないか。」
としかりつけました。
モジャモジャにみだれた頭髪、するどい目、どちらかといえば青白い引きしまった顔、高い鼻、ひげはなくて、キッと力のこもったくちびる、写真で見おぼえのある明智名探偵にちがいありません。
「あたしはこういうものですが。」
左門老人は名刺をさしだしながら、
「先生におりいっておねがいがあっておたずねしたのですが。」
と、小腰をかがめました。
すると明智探偵は、名刺を受けとることは受けとりましたが、よく見もしないで、さもめんどうくさそうに、
「ああ、そうですか。で、どんなご用ですか。」
といいながら、また釣りざおの先へ気をとられています。
老人は女中に先へ帰るようにいいつけて、そのうしろ姿を見おくってから、
「先生、じつはきょう、こんな手紙を受けとったのです。」
と、ふところから例の、二十面相の予告状をとりだして、釣りざおばかり見ている探偵の顔の前へ、つきだしました。
「ああ、また逃げられてしまった……。こまりますねえ、そんなに釣りのじゃまをなすっちゃ。手紙ですって? いったいその手紙が、ぼくにどんな関係があるとおっしゃるのです。」
明智はあくまでぶあいそうです。
「先生は二十面相と呼ばれている賊をごぞんじないのですかな。」
左門老人は、少々むかっ腹をたてて、するどくいいはなちました。
「ホウ、二十面相ですか。二十面相が手紙をよこしたとおっしゃるのですか。」
名探偵はいっこうおどろくようすもなく、あいかわらず釣りざおの先を見つめているのです。
そこで、老人はしかたなく、怪盗の予告状を、自分で読みあげ、日下部家の「お城」にどのような宝物が秘蔵されているかを、くわしく物語りました。
「ああ、あなたが、あの奇妙なお城のご主人でしたか。」
明智はやっと興味をひかれたらしく、老人のほうへ向きなおりました。
「はい、そうです。あの古名画類は、わしの命にもかえがたい宝物です。明智先生、どうかこの老人を助けてください。おねがいです。」
「で、ぼくにどうしろとおっしゃるのですか。」
「すぐに、わたしの宅までおこしねがいたいのです。そして、わしの宝物を守っていただきたいのです。」
「警察へおとどけになりましたか。ぼくなんかにお話になるよりも、まず、警察の保護をねがうのが順序だと思いますが。」
「いや、それがですて、こう申しちゃなんだが、わしは警察よりも先生をたよりにしておるのです。二十面相を向こうにまわして、ひけをとらぬ探偵さんは、先生のほかにないということを、わしは信じておるのです。
それに、ここには小さい警察分署しかありませんから、腕ききの刑事を呼ぶにしたって、時間がかかるのです。なにしろ二十面相は、今夜わしのところをおそうというのですからね。ゆっくりはしておられません。
ちょうどその日に、先生がこの温泉に来ておられるなんて、まったく神さまのおひきあわせと申すものです。先生、老人が一生のおねがいです。どうかわしを助けてください。」
左門老人は、手をあわさんばかりにして、かきくどくのです。
「それほどにおっしゃるなら、ともかくおひきうけしましょう。二十面相はぼくにとっても敵です。早くあらわれてくれるのを、待ちかねていたほどです。
では、ごいっしょにまいりましょうか、そのまえに、いちおうは警察とも打ちあわせをしておかなければなりません。宿へ帰ってぼくから電話をかけましょう。そして、まんいちの用意に、二―三人刑事の応援をたのむことにしましょう。あなたは一足先へお帰りください。ぼくは刑事といっしょに、すぐかけつけます。」
明智の口調は、にわかに熱をおびてきました。もう釣りざおなんか見向きもしないのです。
「ありがとう、ありがとう。これでわしも百万の味方をえた思いです。」
老人は胸をなでおろしながら、くりかえしくりかえし、お礼をいうのでした。
不安の一夜
日下部左門老人が、修善寺でやとった自動車をとばして、谷口村の「お城」へ帰ってから、三十分ほどして、明智小五郎の一行が到着しました。
一行は、ピッタリと身にあう黒の洋服に着かえた明智探偵のほかに、背広服のくっきょうな紳士が三人、みな警察分署づめの刑事で、それぞれ肩書きつきの名刺を出して、左門老人とあいさつをかわしました。
老人はすぐさま、四人を奥まった名画の部屋へ案内して、壁にかけならべた掛け軸や、箱におさめて棚につみかさねてある、おびただしい国宝的傑作をしめし、いちいちその由緒を説明するのでした。
「こりゃあどうも、じつにおどろくべきご収集ですねえ。ぼくも古画は大すきで、ひまがあると、博物館や寺院の宝物などを見てまわるのですが、歴史的な傑作が、こんなに一室に集まっているのを、見たことがありませんよ。
美術ずきの二十面相が目をつけたのは、むりもありませんね。ぼくでもよだれがたれるようですよ。」
明智探偵は、感嘆にたえぬもののように、一つ一つの名画について、賛辞をならべるのでしたが、その批評のことばが、その道の専門家もおよばぬほどくわしいのには、さすがの左門老人もびっくりしてしまいました。そして、名探偵への尊敬の念が、ひとしお深くなるのでした。
さて、少し早めに、一同夕食をすませると、いよいよ名画守護の部署につくことになりました。
明智は、テキパキした口調で、三人の刑事にさしずをして、ひとりは名画室の中へ、ひとりは表門、ひとりは裏口に、それぞれ徹夜をして、見はり番をつとめ、あやしいものの姿をみとめたら、ただちに呼び子を吹きならすというあいずまできめたのです。
刑事たちが、めいめいの部署につくと、明智探偵は名画室のがんじょうな板戸を、外からピッシャリしめて、老人にかぎをかけさせてしまいました。
「ぼくは、この戸の前に、一晩中がんばっていることにしましょう。」
名探偵はそういって、板戸の前の畳廊下に、ドッカリすわりました。
「先生、大じょうぶでしょうな。先生にこんなことを申しては、失礼かもしれませんが、相手はなにしろ、魔法使いみたいなやつだそうですからね。わしは、なんだかまだ、不安心なような気がするのですが。」
老人は明智の顔色を見ながら、いいにくそうにたずねるのです。
「ハハハ……、ご心配なさることはありません。ぼくはさっき、じゅうぶんしらべたのですが、部屋の窓には厳重な鉄ごうしがはめてあるし、壁は厚さが三十センチもあって、ちっとやそっとでやぶれるものではないし、部屋のまんなかには刑事君が、目を見はっているんだし、そのうえ、たった一つの出入り口には、ぼく自身ががんばっているんですからね。これ以上、用心のしようはないくらいですよ。
あなたは安心して、おやすみなすったほうがいいでしょう。ここにおいでになっても、同じことですからね。」
明智がすすめても、老人はなかなか承知しません。
「いや、わしもここで徹夜することにしましょう。寝床へはいったって、ねむられるものではありませんからね。」
そういって、探偵のかたわらへすわりこんでしまいました。
「なるほど、では、そうなさるほうがいいでしょう。ぼくも話し相手ができて好都合です。絵画論でもたたかわしましょうかね。」
さすがに百戦錬磨の名探偵、にくらしいほど落ちつきはらっています。
それから、ふたりはらくな姿勢になって、ポツポツ古名画の話をはじめたものですが、しゃべるのは明智ばかりで、老人はソワソワと落ちつきがなく、ろくろく受け答えもできないありさまです。
左門老人には、一年もたったかと思われるほど、長い長い時間のあとで、やっと、十二時がうちました。真夜中です。
明智はときどき、板戸ごしに、室内の刑事に声をかけていましたが、そのつど、中からハッキリした口調で、異状はないという返事が聞こえてきました。
「アーア、ぼくは少しねむくなってきた。」
明智はあくびをして、
「二十面相のやつ、今夜はやってこないかもしれませんよ。こんなげんじゅうな警戒の中へとびこんでくるばかでもないでしょうからね……。ご老人、いかがです。ねむけざましに一本。外国ではこんなぜいたくなやつを、スパスパやっているんですよ。」
と、たばこ入れをパチンとひらいて、自分も一本つまんで、老人の前にさしだすのでした。
「そうでしょうかね。今夜は来ないでしょうかね。」
左門老人は、さしだされたエジプトたばこを取りながら、まだ不安らしくいうのです。
「いや、ご安心なさい。あいつは、けっしてばかじゃありません。ぼくが、ここにがんばっていると知ったら、まさかノコノコやってくるはずはありませんよ。」
それからしばらくことばがとだえて、ふたりはてんでの考えごとをしながら、おいしそうにたばこをすっていましたが、それがすっかり灰になったころ、明智はまたあくびをして、
「ぼくは少しねむりますよ。あなたもおやすみなさい。なあに、大じょうぶです。武士はくつわの音に目をさますっていいますが、ぼくは職業がら、どんなしのび足の音にも目をさますのです。心までねむりはしないのですよ。」
そんなことをいったかと思うと、板戸の前に長々と横になって、目をふさいでいました。そして、まもなく、スヤスヤとおだやかな寝息が聞こえはじめたのです。
あまりなれきった探偵のしぐさに、老人は気が気ではありません。ねむるどころか、ますます耳をそばだてて、どんなかすかな物音も聞きもらすまいと、いっしょうけんめいでした。
何かみょうな音が聞こえてくるような気がします。耳鳴りかしら、それとも近くの森のこずえにあたる風の音かしら。
そして、耳をすましていますと、しんしんと夜のふけていくのが、ハッキリわかるようです。
頭の中がだんだんからっぽになって、目の前がもやのようにかすんでいきます。
ハッと気がつくと、そのうす白いもやの中に、目ばかり光らした黒装束の男が、もうろうと立ちはだかっているではありませんか。
「アッ、明智先生、賊です、賊です。」
思わず大声をあげて、寝ている明智の肩をゆさぶりました。
「なんです。そうぞうしいじゃありませんか。どこに賊がいるんです。夢でもごらんになったのでしょう。」
探偵は身動きもせず、しかりつけるようにいうのでした。
なるほど、今のは夢か、それとも幻だったのかもしれません。いくら見まわしても、黒装束の男など、どこにもいやしないのです。
老人は少しきまりが悪くなって、無言のままもとの姿勢にもどり、また耳をすましましたが、するとさっきと同じように、頭の中がスーッとからっぽになって、目の前にもやがむらがりはじめるのです。
そのもやが少しずつ濃くなって、やがて、黒雲のようにまっくらになってしまうと、からだが深い深い地の底へでも落ちこんでいくような気持がして、老人は、いつしかウトウトとねむってしまいました。
どのくらいねむったのか、そのあいだじゅう、まるで地獄へでも落ちたような、おそろしい夢ばかりみつづけながら、ふと目をさましますと、びっくりしたことには、あたりがすっかり明るくなっているのです。
「ああ、わしはねむったんだな。しかし、あんなに気をはりつめていたのに、どうして寝たりなんぞしたんだろう。」
左門老人はわれながら、ふしぎでしかたがありませんでした。
見ると、明智探偵はゆうべのままの姿で、まだスヤスヤとねむっています。
「ああ、助かった。それじゃ二十面相は、明智探偵におそれをなして、とうとうやってこなかったとみえる。ありがたい、ありがたい。」
老人はホッと胸をなでおろして、しずかに探偵をゆりおこしました。