「あ、小林の小僧だな。じゃ、あいつは家へ帰らなかったのか。」
「そうだよ。ぼくがどの部屋へはいるか、ホテルの玄関で問いあわせて、その部屋の窓を、注意して見はっているようにいいつけているのだよ。」
しかし、それが何を意味するのか、賊にはまだのみこめませんでした。
「それで、どうしようっていうんだ。」
二十面相は、だんだん不安になりながら、おそろしいけんまくで、明智につめよりました。
「これをごらん。ぼくの手をごらん。きみたちがぼくをどうかすれば、このハンカチが、ヒラヒラと窓の外へ落ちていくのだよ。」
見ると、明智の右の手首が、少しひらかれた窓の下部から、外へ出ていて、その指先にまっ白なハンカチがつままれています。
「これが、あいずなのさ。すると、あの子どもは駅の事務室にかけこむんだ。それから電話のベルが鳴る。そして警官隊がかけつけて、ホテルの出入り口をかためるまで、そうだね、五分もあればじゅうぶんだとは思わないかね。ぼくは五分や十分、きみたち三人を相手に抵抗する力はあるつもりだよ。ハハハ……、どうだい、この指をパッとひらこうかね、そうすれば、二十面相逮捕のすばらしい大場面が、見物できようというものだが。」
賊は、窓の外につきだされた明智のハンカチと、プラットホームの小林少年の姿とを、見くらべながら、くやしそうにしばらく考えていましたが、けっきょく、不利をさとったのか、やや顔色をやわらげていうのでした。
「で、もしぼくのほうで手をひいて、きみをぶじに帰すばあいには、そのハンカチは落とさないですますつもりだろうね。つまり、きみの自由とぼくの自由との、交換というわけだからね。」
「むろんだよ。さっきからいうとおり、ぼくのほうには今君をとらえる考えは少しもないのだ。もしとらえるつもりなら、何もこんなまわりくどいハンカチのあいずなんかいりゃしない。小林君に、すぐ警察へうったえさせるよ。そうすれば、いまごろはきみは警察のおりの中にいたはずだぜ。ハハハ……。」
「だが、きみもふしぎな男じゃないか。そうまでして、このおれを逃がしたいのか。」
「ウン、今やすやすととらえるのは、少しおしいような気がするのさ。いずれ、きみをとらえるときには、大ぜいの部下も、ぬすみためた美術品の数々も、すっかり一網に手に入れてしまうつもりだよ。少し欲ばりすぎているだろうかねえ。ハハハ……。」
二十面相は長いあいだ、さもくやしそうに、くちびるをかんでだまりこんでいましたが、やがて、ふと気をかえたように、にわかに笑いだしました。
「さすがは明智小五郎だ。そうなくてはならないよ……。マア気を悪くしないでくれたまえ。今のは、ちょっときみの気をひいてみたまでさ。けっして本気じゃないよ。では、きょうは、これでお別れとして、きみを玄関までお送りしよう。」
でも、探偵は、そんなあまい口に乗って、すぐ、ゆだんしてしまうほど、お人よしではありませんでした。
「お別れするのはいいがね。このボーイ諸君が少々目ざわりだねえ。まず、このふたりと、それから廊下にいるお仲間を、台所のほうへ追いやってもらいたいものだねえ。」
賊は、べつにさからいもせず、すぐボーイたちに、たちさるように命じ、入り口のドアを大きくひらいて、廊下が見通せるようにしました。
「これでいいかね。ほら、あいつらが階段をおりていく足音が聞こえるだろう。」
明智はやっと窓ぎわをはなれ、ハンカチをポケットにおさめました。まさか鉄道ホテルぜんたいが賊のために占領されているはずはありませんから、廊下へ出てしまえば、もう大じょうぶです。少しはなれた部屋には、客もいるようすですし、そのへんの廊下には、賊の部下でない、ほんとうのボーイも歩いているのですから。
ふたりは、まるで、親しい友だちのように、肩をならべて、エレベーターの前まで歩いていきました。エレベーターの入り口はあいたままで、二十歳ぐらいの制服のエレベーター・ボーイが、人待ち顔にたたずんでいます。
明智はなにげなく、一足先にその中へはいりましたが、
「あ、ぼくはステッキ忘れた。きみは先へおりてください。」
二十面相のそういう声がしたかと思うと、いきなり鉄のとびらがガラガラとしまって、エレベーターは下降しはじめました。
「へんだな。」
明智は早くもそれとさとりました。しかし、べつにあわてるようすもなく、じっとエレベーター・ボーイの手もとを見つめています。
すると案のじょう、エレベーターが二階と一階との中間の、四ほうを壁でとりかこまれた個所までくだると、とつぜんパッタリ運転がとまってしまいました。
「どうしたんだ。」
「すみません。機械に故障ができたようです。少しお待ちください。じきなおりましょうから。」
ボーイは、申しわけなさそうにいいながら、しきりに、運転機のハンドルのへんをいじくりまわしています。
「なにをしているんだ。のきたまえ。」
明智はするどくいうと、ボーイの首すじをつかんで、グーッとうしろに引きました。それがあまりひどい力だったものですから、ボーイは思わずエレベーターのすみにしりもちをついてしまいました。
「ごまかしたってだめだよ。ぼくがエレベーターの運転ぐらい知らないと思っているのか。」
しかりつけておいて、ハンドルをカチッとまわしますと、なんということでしょう。エレベーターは苦もなく下降をはじめたではありませんか。
階下につくと、明智はやはりハンドルをにぎったまま、まだしりもちをついているボーイの顔を、グッとするどくにらみつけました。その眼光のおそろしさ。年若いボーイはふるえあがって、思わず右のポケットの上を、なにかたいせつなものでもはいっているようにおさえるのでした。
機敏な探偵は、その表情と手の動きを見のがしませんでした。いきなりとびついていって、おさえているポケットに手を入れ、一枚の紙幣を取りだしてしまいました。千円札です。エレベーター・ボーイは、二十面相の部下のために、千円札で買収されていたのでした。
賊はそうして、五分か十分のあいだ、探偵をエレベーターの中にとじこめておいて、そのひまに階段のほうからコッソリ逃げさろうとしたのです。いくら大胆不敵の二十面相でも、もう正体がわかってしまった今、探偵と肩をならべて、ホテルの人たちや泊まり客のむらがっている玄関を、通りぬける勇気はなかったのです。明智はけっしてとらえないといっていますけれど、賊の身にしては、それをことばどおり信用するわけにはいきませんからね。
名探偵はエレベーターをとびだすと、廊下を一とびに、玄関へかけだしました。すると、ちょうどまにあって、二十面相の辻野氏が表の石段を、ゆうぜんとおりていくところでした。
「や、しっけい、しっけい、ちょっとエレベーターに故障があったものですからね、ついおくれてしまいましたよ。」
明智は、やっぱりにこにこ笑いながら、うしろから辻野氏の肩をポンとたたきました。
ハッとふりむいて、明智の姿をみとめた、辻野氏の顔といったらありませんでした。賊はエレベーターの計略が、てっきり成功するものと信じきっていたのですから。顔色をかえるほどおどろいたのも、けっしてむりではありません。
「ハハハ……、どうかなすったのですか、辻野さん、少しお顔色がよくないようですね。ああ、それから、これをね、あのエレベーター・ボーイから、あなたにわたしてくれってたのまれてきました。ボーイがいってましたよ、相手が悪くてエレベーターの動かし方を知っていたので、どうもご命令どおりに長くとめておくわけにはいきませんでした。あしからずってね。ハハハ……。」
明智はさもゆかいそうに、大笑いをしながら、例の千円札を、二十面相の面前で二―三度ヒラヒラさせてから、それを相手の手ににぎらせますと、
「ではさようなら。いずれ近いうちに。」
といったかと思うと、クルッと向きをかえて、なんのみれんもなく、あとをも見ずに立ちさってしまいました。
辻野氏は千円札をにぎったまま、あっけにとられて、名探偵のうしろ姿を見おくっていましたが、
「チェッ。」
と、いまいましそうに舌うちすると、そこに待たせてあった自動車を呼ぶのでした。
このようにして名探偵と大盗賊の初対面の小手しらべは、みごとに探偵の勝利に帰しました。賊にしてみれば、いつでもとらえようと思えばとらえられるのを、そのまま見のがしてもらったわけですから、二十面相の名にかけて、これほどの恥辱はないわけです。
「このしかえしは、きっとしてやるぞ。」
彼は明智のうしろ姿に、にぎりこぶしをふるって、思わずのろいのことばをつぶやかないではいられませんでした。
二十面相の逮捕
「あ、明智さん、今、あなたをおたずねするところでした。あいつは、どこにいますか。」
明智探偵は、鉄道ホテルから五十メートルも歩いたか歩かぬかに、とつぜん呼びとめられて、立ちどまらなければなりませんでした。
「ああ、今西君。」
それは警視庁捜査課勤務の今西刑事でした。
「ごあいさつはあとにして、辻野と自称する男はどうしました。まさか逃がしておしまいになったのじゃありますまいね。」
「きみは、どうしてそれを知っているんです。」
「小林君がプラットホームでへんなことをしているのを見つけたのです。あの子どもは、じつに強情ですねえ。いくらたずねてもなかなか言わないのです。しかし、手をかえ品をかえて、とうとう白状させてしまいましたよ。あなたが外務省の辻野という男といっしょに、鉄道ホテルへはいられたこと、その辻野がどうやら二十面相の変装らしいことなどをね。さっそく外務省へ電話をかけてみましたが、辻野さんはちゃんと省にいるんです。そいつはにせものにちがいありません。そこで、あなたに応援するために、かけつけてきたというわけですよ。」
「それはご苦労さま、だが、あの男はもう帰ってしまいましたよ。」
「エッ、帰ってしまった? それじゃ、そいつは二十面相ではなかったのですか?」
「二十面相でした。なかなかおもしろい男ですねえ。」
「明智さん、明智さん、あなた何をじょうだん言っているんです。二十面相とわかっていながら、警察へ知らせもしないで、逃がしてやったとおっしゃるのですか。」
今西刑事はあまりのことに、明智探偵の正気をうたがいたくなるほどでした。
「ぼくに少し考えがあるのです。」
明智は、すまして答えます。
「考えがあるといって、そういうことを、一個人のあなたが、かってにきめてくださってはこまりますね。いずれにしても賊とわかっていながら、逃がすという手はありません。ぼくは職務としてやつを追跡しないわけにはいきません。やつはどちらへ行きました。自動車でしょうね。」
刑事は、民間探偵のひとりぎめの処置を、しきりと憤慨しています。
「きみが追跡するというなら、それはご自由ですが、おそらくむだでしょうよ。」
「あなたのおさしずは受けません。ホテルへ行って自動車番号をしらべて、手配をします。」
「ああ、車の番号なら、ホテルへ行かなくても、ぼくが知ってますよ。一三八八七番です。」
「え、あなたは車の番号まで知っているんですか。そして、あとを追おうともなさらないのですか。」
刑事はふたたびあっけにとられてしまいましたが、一刻をあらそうこのさい、無益な問答をつづけているわけにはいきません。番号を手帳に書きとめると、すぐ前にある交番へ、とぶように走っていきました。
警察電話によって、このことが都内の各警察署へ、交番へと、またたく間につたえられました。
「一三八八七番をとらえよ。その車に二十面相が外務省の辻野氏に化けて乗っているのだ。」
この命令が、東京全都のおまわりさんの心を、どれほどおどらせたことでしょう。われこそはその自動車をつかまえて、凶賊逮捕の名誉をになわんものと、交番という交番の警官が、目をさらのようにし、手ぐすね引いて待ちかまえたことは申すまでもありません。
怪盗がホテルを出発してから、二十分もしたころ、幸運にも一三八八七番の自動車を発見したのは、新宿区戸塚町の交番に勤務している一警官でありました。
それはまだ若くて、勇気に富んだおまわりさんでしたが、交番の前を、規定以上の速力で、矢のように走りぬけた一台の自動車を、ヒョイと見ると、その番号が一三八八七番だったのです。
若いおまわりさんは、ハッとして、思わず武者ぶるいをしました。そして、そのあとから走ってくる空車を、呼びとめるなり、とびのって、
「あの車だッ、あの車に有名な二十面相が乗っているんだ。走ってくれ。スピードはいくら出してもかまわん、エンジンが破裂するまで走ってくれッ。」
とさけぶのでした。
しあわせと、その自動車の運転手がまた、心きいた若者でした。車は新しく、エンジンに申しぶんはありません。走る、走る、まるで鉄砲玉みたいに走りだしたのです。
悪魔のように疾走する二台の自動車は、道行く人の目を見はらせないではおきませんでした。
見れば、うしろの車には、ひとりのおまわりさんが、および腰になって、一心不乱に前方を見つめ、何か大声にわめいているではありませんか。
「捕り物だ、捕り物だ!」
弥次馬がさけびながら、車といっしょにかけだします。それにつれて犬がほえる。歩いていた群衆がみな立ちどまってしまうというさわぎです。
しかし、自動車は、それらの光景をあとに見すてて、通り魔のように、ただ、先へ先へととんでいきます。
いく台の自動車を追いぬいたことでしょう。いくたび自動車にぶつかりそうになって、あやうくよけたことでしょう。
細い道ではスピードが出せないものですから、賊の車は大環状線に出て、王子の方角に向かって疾走しはじめました。賊はむろん追跡を気づいてます。しかし、どうすることもできないのです。白昼の都内では、車をとびおりて身をかくすなんて芸当は、できっこありません。
池袋をすぎたころ、前の車からパーンというはげしい音響が聞こえました。アア、賊はとうとうがまんしきれなくなって、例のポケットのピストルを取りだしたのでしょうか。
いや、いや、そうではなかったのです。西洋のギャング映画ではありません。にぎやかな町のなかで、ピストルなどうってみたところで、今さらのがれられるものではないのです。
ピストルではなくて、車輪のパンクした音でした。賊の運がつきたのです。
それでも、しばらくのあいだは、むりに車を走らせていましたが、いつしか速度がにぶり、ついにおまわりさんの自動車に追いぬかれてしまいました。逃げる行く手にあたって、自動車を横にされては、もうどうすることもできません。
車は二台ともとまりました。たちまちそのまわりに黒山の人だかり。やがて付近のおまわりさんもかけつけてきます。
ああ、読者諸君、辻野氏は、とうとうつかまってしまいました。
「二十面相だ、二十面相だ!」
だれいうとなく、群衆のあいだにそんな声がおこりました。
賊は、付近からかけつけた、ふたりのおまわりさんと、戸塚の交番の若いおまわりさんと、三人にまわりをとりまかれ、しかりつけられて、もう抵抗する力もなくうなだれています。
「二十面相がつかまった!」
「なんて、ふてぶてしいつらをしているんだろう。」
「でも、あのおまわりさん、えらいわねえ。」
「おまわりさん、ばんざーい。」
群衆の中にまきおこる歓声の中を、警官と賊とは、追跡してきた車に同乗して、警視庁へと急ぎます。管轄の警察署に留置するには、あまりに大物だからです。
警視庁に到着して、ことのしだいが判明しますと、庁内にはドッと歓声がわきあがりました。手をやいていた希代の凶賊が、なんと思いがけなくつかまったことでしょう。これというのも、今西刑事の機敏な処置と、戸塚署の若い警官の奮戦のおかげだというので、ふたりは胴あげされんばかりの人気です。
この報告を聞いて、だれよりも喜んだのは、中村捜査係長でした。係長は羽柴家の事件のさい、賊のためにまんまと出しぬかれたうらみを、わすれることができなかったからです。
さっそく調べ室で、げんじゅうな取りしらべがはじめられました。相手は、変装の名人のことですから、だれも顔を見知ったものがありません。何よりも先に、人ちがいでないかどうかをたしかめるために、証人を呼びださなければなりませんでした。
明智小五郎の自宅に電話がかけられました。しかし、ちょうどそのとき、名探偵は外務省に出むいて、るす中でしたので、かわりに小林少年が出頭することになりました。
やがてほどもなく、いかめしい調べ室に、りんごのようなほおの、かわいらしい小林少年があらわれました。そして、賊の姿を一目見るやいなや、これこそ、外務省の辻野氏と偽名した、あの人物にちがいないと証言しました。
「わしがほんものじゃ」
「この人でした。この人にちがいありません。」
小林君は、キッパリと答えました。
「ハハハ……、どうだね、きみ、子どもの眼力にかかっちゃかなわんだろう。きみが、なんといいのがれようとしたって、もうだめだ。きみは二十面相にちがいないのだ。」
中村係長は、うらみかさなる怪盗を、とうとうとらえたかと思うと、うれしくてしかたがありませんでした。勝ちほこったように、こういって、真正面から賊をにらみつけました。
「ところが、ちがうんですよ。こいつあ、こまったことになったな。わしは、あいつが有名な二十面相だなんて、少しも知らなかったのですよ。」
紳士に化けた賊は、あくまでそらとぼけるつもりらしく、へんなことをいいだすのです。
「なんだって? きみのいうことは、ちっともわけがわからないじゃないか。」
「わしもわけがわからんのです。すると、あいつがわしに化けてわしを替え玉に使ったんだな。」
「おいおい、いいかげんにしたまえ。いくらそらとぼけたって、もうその手には乗らんよ。」
「いやいや、そうじゃないんです。まあ、落ちついて、わしの説明を聞いてください。わしは、こういうものです。けっして、二十面相なんかじゃありません。」
紳士はそういいながら、今さら思いだしたように、ポケットから名刺入れを出して、一枚の名刺をさしだしました。それには『松下庄兵衛』とあって、杉並区のあるアパートの住所も、印刷してあるのです。
「わしは、このとおり松下というもので、少し商売に失敗しまして、今はまあ失業者という身のうえ、アパート住まいのひとり者ですがね。きのうのことでした。日比谷公園をブラブラしていて、ひとりの会社員ふうの男と知りあいになったのです。その男が、みょうな金もうけがあるといって、教えてくれたのですよ。
つまり、きょう一日、自動車に乗って、その男のいうままに、東京中を乗りまわしてくれれば、自動車代はただのうえに、五千円の手あてを出すというのです。うまい話じゃありませんか。わしはこんな身なりはしていますけれど、失業者なんですからね、五千円の手あてがほしかったですよ。
その男は、これには少し事情があるのだといって、何かクドクドと話しかけましたが、わしはそれをおしとどめて、事情なんか聞かなくてもいいからといって、さっそく承知してしまったのです。
そこで、きょうは朝から自動車でほうぼう乗りまわしましてな。おひるは鉄道ホテルで食事をしろという、ありがたいいいつけなんです。たらふくごちそうになって、ここでしばらく待っていてくれというものだから、ホテルの前に自動車をとめて、その中にこしかけて待っていたのですが、三十分もしたかとおもうころ、ひとりの男が鉄道ホテルから出てきて、わしの車をあけて、中へはいってくるのです。わしは、その男を一目見て、びっくりしました。気がちがったのじゃないかと思ったくらいです。なぜといって、そのわしの車へはいってきた男は、顔から、背広から、がいとうからステッキまで、このわしと一分一厘もちがわないほど、そっくりそのままだったからです。まるでわしが鏡にうつっているような、へんてこな気持でした。
あっけにとられて見ていますとね、ますますみょうじゃありませんか。その男は、わしの車へはいってきたかと思うと、こんどは反対がわのドアをあけて、外へ出ていってしまったのです。
つまり、そのわしとそっくりの紳士は、自動車の客席を、通りすぎただけなんです。そのとき、その男は、わしの前を通りすぎながら、みょうなことをいいました。
『さあ、すぐに出発してください。どこでもかまいません。全速力で走るのですよ。』
こんなことをいいのこして、そのまま、ごぞんじでしょう、あの鉄道ホテルの前にある、地下室の理髪店の入り口へ、スッと姿をかくしてしまいました。わしの自動車は、ちょうどその地下室の入り口の前にとまっていたのですよ。
なんだかへんだなとは思いましたが、とにかく先方のいうままになるという約束ですから、わしはすぐ運転手に、フル・スピードで走るようにいいつけました。
それから、どこをどう走ったか、よくもおぼえませんが、早稲田大学のうしろのへんで、あとから追っかけてくる自動車があることに気づきました。なにがなんだかわからないけれど、わしは、みょうにおそろしくなりましてな。運転手に走れ走れとどなったのですよ。
それからあとは、ご承知のとおりです。お話をうかがってみると、わしはたった五千円の礼金に目がくれて、まんまと二十面相のやつの替え玉に使われたというわけですね。
いやいや、替え玉じゃない。わしのほうがほんもので、あいつこそわしの替え玉です。まるで、写真にでもうつしたように、わしの顔や服装を、そっくりまねやがったんです。
それがしょうこに、ほら、ごらんなさい。このとおりじゃ。わしは正真正銘の松下庄兵衛です。わしがほんもので、あいつのほうがにせ者です。おわかりになりましたかな。」
松下氏はそういって、ニューッと顔を前につきだし、自分の頭の毛を、力まかせに引っぱってみせたり、ほおをつねってみせたりするのでした。
ああ、なんということでしょう。中村係長は、またしても、賊のためにまんまといっぱいかつがれたのです。警視庁をあげての、凶賊逮捕の喜びも、ぬか喜びに終わってしまいました。
のちに、松下氏のアパートの主人を呼びだして、しらべてみますと、松下氏は少しもあやしい人物でないことがたしかめられたのです。
それにしても、二十面相の用心ぶかさはどうでしょう。東京駅で明智探偵をおそうためには、これだけの用意がしてあったのです。部下を空港ホテルのボーイに住みこませ、エレベーター係を味方にしていたうえに、この松下という替え玉紳士までやといいれて、逃走の準備をととのえていたのです。
替え玉といっても、二十面相にかぎっては、自分によく似た人をさがしまわる必要は、少しもないのでした。なにしろ、おそろしい変装の名人のことです。手あたりしだいにやといいれた人物に、こちらで化けてしまうのですから、わけはありません。相手はだれでもかまわない。口車に乗りそうなお人よしをさがしさえすればよかったのです。
そういえば、この松下という失業紳士は、いかにものんき者の好人物にちがいありませんでした。
二十面相の新弟子
明智小五郎の住宅は、港区竜土町の閑静なやしき町にありました。名探偵は、まだ若くて美しい文代夫人と、助手の小林少年と、お手伝いさんひとりの、質素な暮らしをしているのでした。
明智探偵が、外務省からある友人の宅へたちよって帰宅したのは、もう夕方でしたが、ちょうどそこへ警視庁へ呼ばれていた小林君も帰ってきて、洋館の二階にある明智の書斎へはいって、二十面相の替え玉事件を報告しました。
「たぶん、そんなことだろうと思っていた。しかし、中村君には気のどくだったね。」
名探偵は、にが笑いをうかべていうのでした。
「先生、ぼく少しわからないことがあるんですが。」
小林少年は、いつも、ふにおちないことは、できるだけ早く、勇敢にたずねる習慣でした。
「先生が二十面相をわざと逃がしておやりになったわけは、ぼくにもわかるのですけれど、なぜあのとき、ぼくに尾行させてくださらなかったのです。博物館の盗難をふせぐのにも、あいつのかくれがが知れなくては、こまるんじゃないかと思いますが。」
明智探偵は小林少年の非難を、うれしそうににこにこして聞いていましたが、立ちあがって、窓のところへ行くと、小林少年を手まねきしました。
「それはね。二十面相のほうで、ぼくに知らせてくれるんだよ。
なぜだかわかるかい。さっきホテルで、ぼくはあいつを、じゅうぶんはずかしめてやった。あれだけの凶賊を、探偵がとらえようともしないで逃がしてやるのが、どんなひどい侮辱だか、きみには想像もできないくらいだよ。
二十面相は、あのことだけでも、ぼくをころしてしまいたいほどにくんでいる。そのうえ、ぼくがいては、これから思うように仕事もできないのだから、どうかしてぼくをいうじゃま者を、なくしようと考えるにちがいない。
ごらん、窓の外を。ホラ、あすこに紙芝居屋がいるだろう。こんなさびしいところで、紙芝居が荷をおろしたって、商売になるはずはないのに、あいつはもうさっきから、あすこに立ちどまって、この窓を、見ぬようなふりをしながら、いっしょうけんめいに見ているのだよ。」
いわれて、小林君が、明智邸の門前の細い道路を見ますと、いかにも、ひとりの紙芝居屋が、うさんくさいようすで立っているのです。
「じゃ、あいつ二十面相の部下ですね。先生のようすをさぐりに来ているんですね。」
「そうだよ。それごらん。べつに苦労をしてさがしまわらなくても、先方からちゃんと近づいてくるだろう。あいつについていけば、しぜんと、二十面相のかくれがもわかるわけじゃないか。」
「じゃ、ぼく、姿をかえて尾行してみましょうか。」
小林君は気が早いのです。
「いや、そんなことしなくてもいいんだ。ぼくに少し考えがあるからね。相手は、なんといってもおそろしく頭のするどいやつだから、うかつなまねはできない。
ところでねえ、小林君、あすあたり、ぼくの身辺に、少しかわったことが、おこるかもしれないよ。だが、けっしておどろくんじゃないぜ。ぼくは、けっして二十面相なんかに、出しぬかれやしないからね。たとえぼくの身があぶないようなことがあっても、それも一つの策略なのだから、けっして心配するんじゃないよ。いいかい。」
そんなふうに、しんみりといわれますと、小林少年は、するなといわれても、心配しないわけにはいきませんでした。
「先生、何かあぶないことでしたら、ぼくにやらせてください。先生に、もしものことがあってはたいへんですから。」
「ありがとう。」
明智探偵は、あたたかい手を少年の肩にあてていうのでした。
「だが、きみにはできない仕事なんだよ。まあ、ぼくを信じていたまえ。きみも知っているだろう。ぼくが一度だって失敗したことがあったかい……。心配するんじゃないよ。心配するんじゃないよ。」
さて、その翌日の夕方のことでした。
明智探偵の門前、ちょうど、きのう紙芝居が立っていたへんに、きょうはひとりの乞食がすわりこんで、ほんの時たま通りかかる人に、何か口の中でモグモグいいながら、おじぎをしております。
にしめたようなきたない手ぬぐいでほおかむりをして、ほうぼうにつぎのあたった、ぼろぼろにやぶれた着物を着て、一枚のござの上にすわって、寒そうにブルブル身ぶるいしているありさまは、いかにもあわれに見えます。
ところが、ふしぎなことに、往来に人通りがとだえますと、この乞食のようすが一変するのでした。今まで低くたれていた首を、ムクムクともたげて、顔いちめんの無精ひげの中から、するどい目を光らせて、目の前の明智探偵の家を、ジロジロとながめまわすのです。
明智探偵は、その日午前中は、どこかへ出かけていましたが、三時間ほどで帰宅すると、往来からそんな乞食が見はっているのを、知ってか知らずにか、表に面した二階の書斎で、机に向かって、しきりに何か書きものをしています。その位置が窓のすぐ近くなものですから、乞食のところから、明智の一挙一動が、手にとるように見えるのです。
それから夕方までの数時間、乞食はこんきよく地面にすわりつづけていました。明智探偵のほうも、こんきよく窓から見える机に向かいつづけていました。
午後はずっと、ひとりの訪問客もありませんでしたが、夕方になって、ひとりの異様な人物が、明智邸の低い石門の中へはいっていきました。
その男は、のびほうだいにのばした髪の毛、顔中をうすぐろくうずめている無精ひげ、きたない背広服を、メリヤスのシャツの上にじかに着て、しまめもわからぬ鳥打ち帽子をかぶっています。浮浪人といいますか、ルンペンといいますか、見るからにうすきみの悪いやつでしたが、そいつが門をはいってしばらくしますと、とつぜんおそろしいどなり声が、門内からもれてきました。
「やい、明智、よもやおれの顔を見わすれやしめえ。おらあお礼をいいに来たんだ。さあ、その戸をあけてくれ。おらあうちの中へはいって、おめえにもおかみさんにも、ゆっくりお礼が申してえんだッ。なんだと、おれに用はねえ? そっちで用がなくっても、こっちにゃ、ウントコサ用があるんだ。さあ、そこをどけ。おらあ、きさまのうちへはいるんだ。」
どうやら明智自身が、洋館のポーチへ出て、応対しているらしいのですが、明智の声は、聞こえません。ただ浮浪人の声だけが、門の外までひびきわたっています。
それを聞くと、往来にすわっていた乞食が、ムクムクとおきあがり、ソッとあたりを見まわしてから、石門のところへしのびよって、電柱のかげから中のようすをうかがいはじめました。
見ると、正面のポーチの上に明智小五郎がつっ立ち、そのポーチの石段へ片足かけた浮浪人が、明智の顔の前でにぎりこぶしをふりまわしながら、しきりとわめきたてています。
明智は少しもとりみださず、しずかに浮浪人を見ていましたが、ますますつのる暴言に、もうがまんができなくなったのか、
「ばかッ。用がないといったらないのだ。出ていきたまえ。」
と、どなったかと思うと、いきなり浮浪人をつきとばしました。
つきとばされた男は、ヨロヨロとよろめきましたが、グッとふみこたえて、もう死にものぐるいで、「ウヌ!」とうめきざま、明智めがけて組みついていきます。
しかし、格闘となってはいくら浮浪人がらんぼうでも、柔道三段の明智探偵にかなうはずはありません。たちまち、腕をねじあげられ、ヤッとばかりに、ポーチの下の敷石の上に、投げつけられてしまいました。男は、投げつけられたまま、しばらく、痛さに身動きもできないようすでしたが、やがて、ようやく起きあがったときには、ポーチのドアはかたくとざされ、明智の姿は、もうそこには見えませんでした。
浮浪人はポーチへあがっていって、ドアをガチャガチャいわせていましたが、中から締まりがしてあるらしく、おせども引けども、動くものではありません。
「ちくしょうめ、おぼえていやがれ。」
男は、とうとうあきらめたものか、口の中でのろいのことばをブツブツつぶやきながら、門の外へ出てきました。
さいぜんからのようすを、すっかり見とどけた乞食は、浮浪人をやりすごしておいて、そのあとからそっとつけていきましたが、明智邸を少しはなれたところで、いきなり、
「おい、おまえさん。」
と、男に呼びかけました。
「エッ。」
びっくりしてふりむくと、そこに立っているのは、きたならしい乞食です。
「なんだい、おこもさんか。おらあ、ほどこしをするような金持じゃあねえよ。」
浮浪人はいいすてて、立ちさろうとします。
「いや、そんなことじゃない。少しきみにききたいことがあるんだ。」
「なんだって?」
乞食の口のきき方がへんなので、男はいぶかしげに、その顔をのぞきこみました。
「おれはこう見えても、ほんものの乞食じゃないんだ。じつは、きみだから話すがね。おれは二十面相の手下のものなんだ。けさっから、明智の野郎の見はりをしていたんだよ。だが、きみも明智には、よっぽどうらみがあるらしいようすだね。」
ああ、やっぱり、乞食は二十面相の部下のひとりだったのです。
「うらみがあるどころか、おらあ、あいつのために刑務所へぶちこまれたんだ。どうかして、このうらみを返してやりたいと思っているんだ。」
浮浪人は、またしても、にぎりこぶしをふりまわして、憤慨するのでした。
「名まえはなんていうんだ。」
「赤井寅三ってもんだ。」
「どこの身うちだ。」
「親分なんてねえ。一本立ちよ。」
「フン、そうか。」
乞食はしばらく考えておりましたが、やがて、何を思ったか、こんなふうに切りだしました。
「二十面相という親分の名まえを知っているか。」
「そりゃあ聞いているさ。すげえ腕まえだってね。」
「すごいどころか、まるで魔法使いだよ。こんどなんか、博物館の国宝を、すっかりぬすみだそうという勢いだからね……。ところで、二十面相の親分にとっちゃ、この明智小五郎って野郎は、敵も同然なんだ。明智にうらみのあるきみとは、おなじ立ち場なんだ。きみ、二十面相の親分の手下になる気はないか。そうすりゃあ、うんとうらみが返せようというもんだぜ。」
赤井寅三は、それを聞くと、乞食の顔を、まじまじとながめていましたが、やがて、ハタと手を打って、
「よし、おらあそれにきめた。兄貴、その二十面相の親分に、ひとつひきあわせてくんねえか。」
と、弟子入りを所望するのでした。
「ウン、ひきあわせるとも。明智にそんなうらみのあるきみなら、親分はきっと喜ぶぜ。だがな、その前に、親分へのみやげに、ひとつ手がらをたてちゃどうだ。それも、明智の野郎をひっさらう仕事なんだぜ。」
乞食姿の二十面相の部下は、あたりを見まわしながら、声をひくめていうのでした。
名探偵の危急
「ええ、なんだって、あの野郎をひっさらうんだって、そいつあおもしれえ。ねがってもないことだ。手つだわせてくんねえ。ぜひ手つだわせてくんねえ。で、それはいったい、いつのことなんだ。」